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- 09/25 株主の共同相続と「準共有」
- 09/22 美容師さんと私
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先日、学生時代の先輩の結婚式にお呼ばれしちゃったので行ってきました。
明治記念館、すばらしく大正ブルジョワな建築ですね。真田丸を見てだらだらしていたら家を出るのが遅れ、到着がギリギリになってしまい、やむなく欠席しようかと考えもしましたが、なんとか間に合ってほっとしました(もう少しちゃんとした社会人であるべきだといつも思うのだよ、これでも)。
すばらしく金がかかった披露宴でした。さすがは公務員夫婦。市民の税金がこのような形で還元されることで社会は回っていくのですから、これは正しい浪費の仕方なのです。別に皮肉ではなく(私も公僕だ)。部活のメンバーの結婚式に出席するのはこれで三回目なのだが、どんどん豪華な仕様になっている気がする。別に対抗意識があるわけでもないだろうに、どうもみんな豪華なものになるのだ。
私が結婚式を挙げるとすれば、やはり日本古来の式に則ったものと、現代社会生活をある程度反映した西洋文明の栄華(すなわち俗化されたキリスト教的モチーフ)とを両方とも取り入れたいと考えているが、さすがにあそこまで豪華なものにされると躊躇する。まあ、所詮、結婚式なんてものは見栄をはる場でしかないのだから、そこは体面をとるか、コスパをとるか、妥協するしかあるまい。
うちの嫁は割とポピュラリティのある価値観を持っているので、そこは世間の常識に適った形式でやることを望むだろう。私の場合は、いつか吐露したように、棺桶の中から目覚めたヴァンパイアに扮した特殊メイクで着飾った私が中世の古城に眠る美しい姫君を月夜の晩にさらい永遠の口づけをかわす、ような趣向でもぜんぜん構わないのだが。
ところで、先日嫁と飲んだときに将来の話になり、私は老後のことを最近よく考える、なんてことを言ったら嫁が、その前にまずお父さんになるわけでしょう、と極めて常識的なつっこみを入れてきたのである。確かに老害になる前にまず親になるのが時間的順序である、というか天地の摂理であることは否定しがたいが、なんとなく私は、親になることよりも歳をとることのほうを重くみるきらいがある。
親になることは全然当たり前ではないので親になることはある種の選択であり、人為である。けれども、老いることは選択の結果でなくて必然であるのだから、親になることよりもより深刻である、と理屈をこねることもできるが、たぶんそうではない。親になっても私は私だが歳をとった私は全然私ではない可能性がある。こういうことではないか。
嫁がいて、子供がいる生活というのは私の身体が引き受けるものであるが、老いというものはその身体自体の変化なのであるから、親になることよりもより本質的変化であるといえはしないか。嫁を持ち、子供を持つこの身体が老いてゆくのである。家族は老いの中に包摂されているともいえるのではないか。
家族を持つ、ことも老いのある種の形態である。人は老いることで家族を持つようになる。いや、老いるからこそ、家族を持つのだ。
だが、女性にとって子供を持つということが男性よりもより本質的な経験として捉えられるのは当然と言えば当然なので、うちの嫁とのそういう感覚の違いをことさら持ち上げる必要はあまりないのかもしれない。父親にとって子供はやはり肉体の外にあるものだし、その点、自らの肉体と直接繋がっている母親とは子供を持つ、という経験における身体的感度に自ずから差が生じる。
だが、私にとって「老い」ということが人生のテーマにおいて本質的である理由は、老いという事象の中に、人間の救いのなさ、というか、幸福というものの不確かさが、すべて現れているような気がしてならないから、なのかもしれない。私は幸福というものに非常に懐疑的なのだ。
幸福というものに懐疑的であるほうが安定した心持で世の中を渡ることができるのではないか、という気がしてならない(いつだって安定志向)。束の間の幸福という形でしか幸福を生きることができないなら常に警戒していたほうがいざという時の心構えにもなる。
無心に幸福を祝う、なんてことをやる祝宴というのは気が気でない。結婚式とは恐ろしい行事である。おそらく私が恐れているもっとも厳粛な儀式。こんな非人間的で野蛮な風習は心を無にして乗り切るしかあるまい、と今から腹を括ってしまいたくなる。
私にとって常識的な感覚というのは極めて悍ましいものに見えることが多々あるので、これもそういうイニシエーションだと思って諦めるより他ない。そんな風にして、私は最近、いろいろなことを諦めているような気がする。私の思い通りにならない世界に対して、ではなくて、思い通りにならない私自身に対して、なのかもしれない。
というか、世の中こういう風にあってほしいという思いはすべて傲岸不遜な願いだし、私はそれほど強い怨念を世の中に対して抱いているわけではない。常識人というものが、単に恐ろしい。それだけである。私は臆病者であるに過ぎない。
私は自分を極めて普通の人、というか凡人だと思っているし、私ほど「典型」という言葉が似あう人間は極めて稀なのではないか、とすら思えてくるほどに、バランスのとれた人格と肉体を有している、と考えている(どんな自己意識だそれは)。
なにも誇張した表現でなく、本当に、マジでそう思っているので、私のことを変わっているという連中のほうが頭がおかしいのではないか、とよく思う。が、それも最近はどうでもよくなった。人間はそれぞれみな個性的なものだ、そんな風に、出会った初日にうちの嫁は言った。その極めて常識的な表現に思わず唸った。誠にその通りだ。私だってそうに違いないと思っているよ、心から。
そして最近はもう、そんな自意識に悩まされることもだいぶ少なくなった。どうでもいい。なにもかもどうでもいい。そんなアナーキストのような気分に浸ることが多い。別に毎日つまらないわけではなく、本当にどうでもいいことが世の中多すぎるのだ。
こういうことを書くとうちの嫁は極めて常識人で、だからお前は彼女を選んだんだろう、と思う向きもあるかもしれないが、私からすれば彼女の方もだいぶ「ズレ」ているので、彼女からすれば私のほうが遥かに常識人に見える、ということもないわけではないのではないか(いや、それはちょっと反語的すぎるかもしれない、と自分でも思う)。
私からすると、彼女はあまりに世界を楽観視し過ぎているきらいがあるし、その点はとても不安に思う。けれど私があまりに鬱屈した性格なので彼女の気質の方が標準的なものに近いのかもしれない。
不安、漠然とした不安、あの芥川を自殺に追い込んだ「ぼんやりとした不安」というのはこういう気質のことを言うのかどうか、昔から思うところがある。別に健康に難があるわけでもなし、何か生活上の困難を抱えているわけでもなし、容姿に格別問題があるわけでもない人間が何か終始鬱屈した気分を抱えているとすればそれは性格、気質に拠るもの、としか考えられない。けれど私自身は案外、こういう気分にある時の自分が好きなのかもしれない。というか好きなのだ。こういう気分が。すっきりとしない感覚を抱えているほうが落ち着くのだろう。
もちろん私だって人並みに、青い空の下で健康的に生きていきたいと思う。それを実現できる条件は私にだって、あるはずなのに、なかなかそういう方向に気分が向かないことが多い。
このメランコリーは反転する。反転すれば、一見肯定的な世界観になる。その反転した眼差しで、人を見ることに慣れてしまうことは、老いを先取りしているようで、きっと後で反動がくるに違いない。それがまた恐ろしい。
ああ、これもとりあえずは「どうでもいいこと」だろうな。
彼女からすると、私はとても心配事なんてなさそうな人に見えるらしい。自分でもそう思う。自分で思っているほど私は深刻な人ではないのだ。そんな風にありたいと思うよ、これからも。
明治記念館、すばらしく大正ブルジョワな建築ですね。真田丸を見てだらだらしていたら家を出るのが遅れ、到着がギリギリになってしまい、やむなく欠席しようかと考えもしましたが、なんとか間に合ってほっとしました(もう少しちゃんとした社会人であるべきだといつも思うのだよ、これでも)。
すばらしく金がかかった披露宴でした。さすがは公務員夫婦。市民の税金がこのような形で還元されることで社会は回っていくのですから、これは正しい浪費の仕方なのです。別に皮肉ではなく(私も公僕だ)。部活のメンバーの結婚式に出席するのはこれで三回目なのだが、どんどん豪華な仕様になっている気がする。別に対抗意識があるわけでもないだろうに、どうもみんな豪華なものになるのだ。
私が結婚式を挙げるとすれば、やはり日本古来の式に則ったものと、現代社会生活をある程度反映した西洋文明の栄華(すなわち俗化されたキリスト教的モチーフ)とを両方とも取り入れたいと考えているが、さすがにあそこまで豪華なものにされると躊躇する。まあ、所詮、結婚式なんてものは見栄をはる場でしかないのだから、そこは体面をとるか、コスパをとるか、妥協するしかあるまい。
うちの嫁は割とポピュラリティのある価値観を持っているので、そこは世間の常識に適った形式でやることを望むだろう。私の場合は、いつか吐露したように、棺桶の中から目覚めたヴァンパイアに扮した特殊メイクで着飾った私が中世の古城に眠る美しい姫君を月夜の晩にさらい永遠の口づけをかわす、ような趣向でもぜんぜん構わないのだが。
ところで、先日嫁と飲んだときに将来の話になり、私は老後のことを最近よく考える、なんてことを言ったら嫁が、その前にまずお父さんになるわけでしょう、と極めて常識的なつっこみを入れてきたのである。確かに老害になる前にまず親になるのが時間的順序である、というか天地の摂理であることは否定しがたいが、なんとなく私は、親になることよりも歳をとることのほうを重くみるきらいがある。
親になることは全然当たり前ではないので親になることはある種の選択であり、人為である。けれども、老いることは選択の結果でなくて必然であるのだから、親になることよりもより深刻である、と理屈をこねることもできるが、たぶんそうではない。親になっても私は私だが歳をとった私は全然私ではない可能性がある。こういうことではないか。
嫁がいて、子供がいる生活というのは私の身体が引き受けるものであるが、老いというものはその身体自体の変化なのであるから、親になることよりもより本質的変化であるといえはしないか。嫁を持ち、子供を持つこの身体が老いてゆくのである。家族は老いの中に包摂されているともいえるのではないか。
家族を持つ、ことも老いのある種の形態である。人は老いることで家族を持つようになる。いや、老いるからこそ、家族を持つのだ。
だが、女性にとって子供を持つということが男性よりもより本質的な経験として捉えられるのは当然と言えば当然なので、うちの嫁とのそういう感覚の違いをことさら持ち上げる必要はあまりないのかもしれない。父親にとって子供はやはり肉体の外にあるものだし、その点、自らの肉体と直接繋がっている母親とは子供を持つ、という経験における身体的感度に自ずから差が生じる。
だが、私にとって「老い」ということが人生のテーマにおいて本質的である理由は、老いという事象の中に、人間の救いのなさ、というか、幸福というものの不確かさが、すべて現れているような気がしてならないから、なのかもしれない。私は幸福というものに非常に懐疑的なのだ。
幸福というものに懐疑的であるほうが安定した心持で世の中を渡ることができるのではないか、という気がしてならない(いつだって安定志向)。束の間の幸福という形でしか幸福を生きることができないなら常に警戒していたほうがいざという時の心構えにもなる。
無心に幸福を祝う、なんてことをやる祝宴というのは気が気でない。結婚式とは恐ろしい行事である。おそらく私が恐れているもっとも厳粛な儀式。こんな非人間的で野蛮な風習は心を無にして乗り切るしかあるまい、と今から腹を括ってしまいたくなる。
私にとって常識的な感覚というのは極めて悍ましいものに見えることが多々あるので、これもそういうイニシエーションだと思って諦めるより他ない。そんな風にして、私は最近、いろいろなことを諦めているような気がする。私の思い通りにならない世界に対して、ではなくて、思い通りにならない私自身に対して、なのかもしれない。
というか、世の中こういう風にあってほしいという思いはすべて傲岸不遜な願いだし、私はそれほど強い怨念を世の中に対して抱いているわけではない。常識人というものが、単に恐ろしい。それだけである。私は臆病者であるに過ぎない。
私は自分を極めて普通の人、というか凡人だと思っているし、私ほど「典型」という言葉が似あう人間は極めて稀なのではないか、とすら思えてくるほどに、バランスのとれた人格と肉体を有している、と考えている(どんな自己意識だそれは)。
なにも誇張した表現でなく、本当に、マジでそう思っているので、私のことを変わっているという連中のほうが頭がおかしいのではないか、とよく思う。が、それも最近はどうでもよくなった。人間はそれぞれみな個性的なものだ、そんな風に、出会った初日にうちの嫁は言った。その極めて常識的な表現に思わず唸った。誠にその通りだ。私だってそうに違いないと思っているよ、心から。
そして最近はもう、そんな自意識に悩まされることもだいぶ少なくなった。どうでもいい。なにもかもどうでもいい。そんなアナーキストのような気分に浸ることが多い。別に毎日つまらないわけではなく、本当にどうでもいいことが世の中多すぎるのだ。
こういうことを書くとうちの嫁は極めて常識人で、だからお前は彼女を選んだんだろう、と思う向きもあるかもしれないが、私からすれば彼女の方もだいぶ「ズレ」ているので、彼女からすれば私のほうが遥かに常識人に見える、ということもないわけではないのではないか(いや、それはちょっと反語的すぎるかもしれない、と自分でも思う)。
私からすると、彼女はあまりに世界を楽観視し過ぎているきらいがあるし、その点はとても不安に思う。けれど私があまりに鬱屈した性格なので彼女の気質の方が標準的なものに近いのかもしれない。
不安、漠然とした不安、あの芥川を自殺に追い込んだ「ぼんやりとした不安」というのはこういう気質のことを言うのかどうか、昔から思うところがある。別に健康に難があるわけでもなし、何か生活上の困難を抱えているわけでもなし、容姿に格別問題があるわけでもない人間が何か終始鬱屈した気分を抱えているとすればそれは性格、気質に拠るもの、としか考えられない。けれど私自身は案外、こういう気分にある時の自分が好きなのかもしれない。というか好きなのだ。こういう気分が。すっきりとしない感覚を抱えているほうが落ち着くのだろう。
もちろん私だって人並みに、青い空の下で健康的に生きていきたいと思う。それを実現できる条件は私にだって、あるはずなのに、なかなかそういう方向に気分が向かないことが多い。
このメランコリーは反転する。反転すれば、一見肯定的な世界観になる。その反転した眼差しで、人を見ることに慣れてしまうことは、老いを先取りしているようで、きっと後で反動がくるに違いない。それがまた恐ろしい。
ああ、これもとりあえずは「どうでもいいこと」だろうな。
彼女からすると、私はとても心配事なんてなさそうな人に見えるらしい。自分でもそう思う。自分で思っているほど私は深刻な人ではないのだ。そんな風にありたいと思うよ、これからも。
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