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- 01/07 「欲望の思想」の身体主義と、「身体の工学化」について
- 11/10 大学能楽サークルには「内向き」な人たちが集まることについての考察から、「不器用な人たち」の文化史まで
- 09/25 株主の共同相続と「準共有」
- 09/22 美容師さんと私
- 09/17 働き方改革と管理職
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能楽サークルには確かに内向的な人が多い気もする。けれど、能楽は「演劇」なのだとすれば、少なくとも外側に向かうエネルギーは放つ必要がある・・・。が、これも複雑な話で、能楽はある意味、「内向きの表現」にこそその美学の一端、というより本質がある気がするのである。
しかし「内向きの表現」がその本質であるからといって、内側に込めるだけでは表現として成立しないのであって、さように能楽的な身体というのは緊張を孕んでいる。内向的な人がそのまま能楽的な表現に向いているのではなく、むしろ情念のベクトルを発揮しつつ、それを内側に込めなければならない。
元々情熱家なタイプの人であれば「内側に込める」段階が重要になるのだが、元々内向的な人だとそもそも情念を発露させる訓練を経た後、それを内に込める段階に達する必要があるために、情熱家タイプよりむしろ「手間がかかる」と言えなくもないのではないか、と常々思っていて。
だから大学能楽サークルに集まってくるタイプのマジョリティは実際のところ、世間的にはマイノリティなのだと思うけども、そもそも大学能楽サークルに集まりやすいタイプの人が能楽という技芸に向いているのかどうか、というと確信が持てないのである。
どちらかというとスポーツマン気質の人のほうが向いている気がするのだが、スポーツマン気質の人というのはまず大学能楽サークルには入らない。(例外はある)しかし、であるがゆえに、大学能楽サークルの牧歌的な平和が実現しているとも言えるわけで、これに関してはなんとも言えない。
よく私は、自分みたいな人間ばかりになれば世の中平和になるのになあ、と考えたりするのだが、私みたいな人間ばかりじゃないから私みたいな人間が重宝される場所があるわけで、これは当たり前の話なのである。
大学能楽サークルにおける内向気質、の話に絡めると、仮に能楽的な身体表現に不向きな人材が大学能楽サークルに供給されてくるにしても、それは能楽文化全体にとってプラスとかマイナスとか、そういう次元で捉えることはない。そういうもんだ、と思うべきだし、そこが大前提になるわけです。
人類の文化史においては、そもそもそれに不向きな人たちが当該文化を担ってきた領域というものがあるのではないか。というより、およそ文化なるものは、そうした「不器用な人たち」によって担われてきたのではないか。これは逆説的なことかもしれないが、「器用な天才」が必要とされるのは、革命的瞬間においてなのであって、文化史の長い時間スパンの中ではそうした革命的瞬間というのはごく稀にしか訪れない。長く続く平時においては、不器用ながらも「型」に忠実に自分を合わせていこうとする不器用な人たちこそが、その担い手になるのではないか。
そもそも芸事に向き不向きがあるのか、と私は思っている。ある、といえばあるし、ない、といえば、ない。それが私の見方です。
たとえば、柔道はもはや世界的スポーツであり、もはや日本のお家芸ではないとすら言える。しかし柔道は日本人に向いていない、という人はいない。あるいは、クラシック音楽は西洋で生まれた西洋人のための文化であるなどとは、もはや誰も言わない。
最適化された、とは、ある視点から見た見方に過ぎない。その技芸の物理的本質に沿った特質を有する人材だけがその技芸の継承者として相応しいとすれば、人類史において出現した大抵の技芸はもはや滅んでいることだろう。
その本質をどう見るか、という問題もあるし(その技芸の「本質」なるものは観察者によって見方が変わるだろう)、そもそもある特質がある本質に直接的に結び付くためには様々な前提がいる。指が長ければピアノに長じる可能性は高まるかもしれないが、予期せぬ事故で指先を失う可能性も高まるだろうし、指が長い人が同時に器用でもある保証などないのである。
ある特質を有する人材を選択的に特定の技芸の継承者に選抜する試みは、文化的な「遺伝的多様性」を損なう危険を孕みもする。そうでなくとも、能楽は「間口が狭い」のである。せめて狭い間口を常時開けておくくらいの寛容さと不用心は持ち合わせていたい。
能楽という技芸に本来的に不向きな人たちが能楽全体の裾野を広げている、という部分こそが、能楽の可能性であり、面白さであるし、思考の大前提にある。その大前提を踏まえなければ、能楽の身体を受け入れることはできない。その身体は、不向きの先にあるからである。
芸事に限らず、物事の向き不向きというのはそう単純なものではない。不向き、は避けるべきアクシデントなのではなく、むしろ、常態なのではないか。我々はみな、常に不向きな身体で現実と向き合っていて、ときおり現実と身体がマッチングするに過ぎない。
不向きは常態なのだから、不向きな身体に慣れてゆけばよいと思う。それが能楽的な身体なのではないか。不向きな身体であることを思い出して、不向きな人生を生き直す。「型」がある芸術は、みなそうだと思う。
能楽における身体表現の高度な抽象化は、能楽的身体を「人形的身体」にしているのだが、人形的身体とは、この「不向きの身体」を現出させる装置でもある。人形的身体とは、不向きの身体の具象化であるとも言える。故に、人形とは我々の「常態」なのかもしれない。(これは面白い話になってきた)
人形が我々の似姿であるのは、不器用な現実の我々の似姿であるからではないだろうか。人形がぎこちないのではない。我々がぎこちないのである。