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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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子供にはみんな生物学的な親がいるけど子供には子をつくる蓋然性がない、だから当たり前に存在する親という概念と自分自身が親になることの可能性の格差に畏れをなす、ということは、結局は宇宙の起源の問題に収斂される。




ワレオモウ、ユエニ、ワレアリ、が哲学の起源たり得るのは、親という存在と私という存在の間にある可能性の格差に畏れ戦くからじゃないのか。




エゴイストは常に具体物を志向する。ロマンチストは常に抽象物を志向する。故にロマンチストのほうが罪深い。なぜなら抽象的なものは一般的なものでしかあり得ず、一般的なものは相対的にしか存在し得ないからだ。一般的な幸福は相対的な不幸を必要とせざるを得ない。




権利の上に眠る者は保護に値しない、という理念の究極の根拠は、権利というものが目に見えず、定かでないからではないかと思うことがある。しかし見える権利なんて不安で仕方がないだろう。見えてしまえば、もうそれ以上はないのだから。




法的思考の結論のみが見える知識として流布しても、それで人類が幸福になるとは思えない。けれど民主主義のテクノロジーはそれを追求し続けるだろう。解釈という営みが絶えず脱聖化されていくプロセスが快楽になる仕組みこそ、我々が得るものだろう。




デカルトが言い出したことを私なりに解釈すると、私の親は結婚して子供を産んだのに、なんで私はいつまでも童貞なのか、ってことだと思えてくる。




そういうことを表現するために、ワレオモウ、なんて無意味なことを言わなければならなかった。私には親がいて当然でも、私に子供がないのはなんら不思議なことではない、という事実を解釈するために機械の話をしなければならなかった。本来は時間と可能性の話をすべきだった。




そういう男のエピソードが近代哲学の起源になったのは人類の不幸だったかもしれないけれども、哲学の起源に非リアの悲愴さが現れることで非リアという存在形式を幾分か、形而上学的な次元に引き上げることにはなったと思う。




見方を変えるならば、少子高齢化時代における人類の「個」と「種」の有り様はデカルトの悲愴さに色付けられていると言える。




起源に関する議論はいつもうやむやにされる、また、されなければならない。だから私はこの悲愴さを肯定できる。人権の話をするならば、まずデカルトの恥部に畏敬の念を捧げることから始めよう。





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