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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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指輪を買いました。ヴィーナスフォートにて。





告白は、観覧車の中。
シチュエーション的にはベタの王道を行く、という感じ。





ここまでの顛末を完結に述べると、





2月:某婚活サイトでメッセージを交換。デートする。
3月:正式に付き合う。@ジョイポリス。
5月:日光にお泊りデート。
7月:それぞれのおうちに挨拶
8月:イマココ





まあ、こんな感じ。なんやかんやで出会って半年なんですね。





実際に付き合い始めるまでは、まさか婚活サイトで知り合った相手とそういう関係になるとは思ってもいませんでした。まあ、合コンだとか、婚活だとか、今年に入るまで、もっというと、前年末に以前の相方と別れるまでまったく眼中にありませんでしたからね。人と人との出会いは作為的であるべきでない、とりわけ異性関係は神聖なものなのだ、という信念も人並みになかったといえば嘘になるでしょう。心からそう思っていたのかと言えばたぶん怪しいですけど。





元来ロマンチストである自分が婚活という「作為」を受け入れたのは、その時の気分がそうさせたのだというのがたぶん正しい。相方と別れて、肩の荷が下りたというか、なんとなくすっきりしたというか、そういうポジティヴな開放感のようなものがあったのだと思う。まあ、そりゃそうだ。なにぶん、5年も付き合っていたのだ。





なぜ以前の相方と決定的な関係にならなかったのだろうか、と今にして考えるが、これも正確なところはよくわからない。自分のことながら、皆目よくわからないのである。別に仲が悪くなったわけではない。むしろ喧嘩すらまともにしたことのない5年間だった。それが倦怠の原因になったのではないか、という可能性はすぐ思い浮かんだが、それとて決定的な要因とは言えない。「倦怠」が理由の一端をなしていた、それも大きな一端をなしていたことは事実だと思うけれども、それがすべてではない。たぶん。おそらく。





喧嘩するほど仲がいい、とはよくいうけれども、私は「喧嘩する」ほど自己主張が強くない。たとえ付き合った相手の気性が激しくとも、大概自分が折れる。別にプライドがないわけではないが、どうも喧嘩の作法を私は知らない。これは私の個人的な、パーソナリティに関わる話なので詳しい説明は省くが、私は喧嘩ができないのである。無論、それが別れた原因だといえばそれもそうかもしれない、としか言えない。要するに、決定的な理由などなかったのだ。(たぶん)





私とて、別に以前の彼女に愛想を尽かしたわけではない。というか、私が他人に愛想を尽かすことは殆どない。これは別に誇張でもなんでもなく、実際そうなのである。





別れ際、私は彼女にメールを送った。内容は、そろそろ新しい段階に行かないか、と誘いをかけるものだった(もちろん、それなりのレトリックは駆使して)。それまでの長い期間、私たちの間には殆ど音信は絶えていた。実質的にはすでにこの時点で「破局」していたのだけど、私としては相手が「死に体」かどうか、窺う必要があると思った。そして返信は、あった。内容は、。。。。。。お察しの通りである。





そんなこんなで、なんやかんやで、以上の流れである。
そこに必然性は皆無。
別れた直後に、一月ほど置いて、再びパートナーを見出すに至る。





タイミング的に、次に付き合う相手は「結婚相手」しかいない、と思っていた。こういうことはアラサー女子が考えることであって、私のようなしがない男子が考えることではないのかもしれないが、なんとなく、そう思った。別れる直前に、そういう気分になっていたという事情もあるかもしれない。それで婚活サイトに登録してみた。なんとなく、ゲーム感覚で、メッセージの交換相手を見定めるうちに今の彼女と出会った。そういうと大変不謹慎なようであるけども、「婚活サイト」に登録している以上、自分も相手もそういう付き合いを求めていることが前提なのだから、私もそこは割り切って対応していたと思う。





初めてのデートで、私は告白した。
まあ、率直にね。
タイプです、って。





そこは、タイプなんてものはない、と普段から思っているくらいだから多少脚色が混じっているけども、実際、相手の空気感に親しみを覚えたことは事実である。どこかであったな、こんな感じ。なんとなく、懐かしい感じがした。と、これまた不謹慎な理由であろうか。





けれどももちろん、彼女は過去の幻影ではない。私にとって彼女は、今まで付き合ってきた異性の中でも最も自分に「合っている」と感じる。性格、好み、容姿、声、そのすべてにおいて。





こんなことを真面目に書いている自分が恥ずかしいが、自分が生涯のパートナーを選ぶとして、選ぶことができるとして、この人以上の人はたぶん、いないだろうな、と生理的に感じた。それが指輪を送った理由の殆どすべてである。あとの少しは、さあ、ご想像にお任せする。(無責任)





さて、思えば今年の上半期はいろいろなことがありすぎた。身内の死、新しい出会い。エンゲージリング。もはや自分でも半年前の自分は全然違う人であろうと思う。人生にはそういうタイミングが、あるのだろう。たぶん、これからも何度も。





私自身の心境の変化、といえば、家族というものに対する見方、それが少しだけ、リアリティを増した、とか、老い、というものがより重要なテーマとして浮上してきた、とか、そのくらいだろうか。相変わらずメランコリックな気質は変わらないし、相変わらずゴシックなものが好きである。たぶん、それは変わらないのだろう。





今後、やりたいことはいくつかあり、そうした個人的な願望と家庭と、どういう風に折り合いを付けていくかが一つ問題になりそうではある。まあ、これとて誰もが通る道といえばその通りで、別に私固有の問題とは言えない。ただ、どうせ気の向くまま、風の向くまま、に生きるのなら、自分なりの思想なり、哲学なりを持ちたいとは常に思っていて、それは日々の実践で示していく他ないと思っている。また、学術的な方面でも一つ、あるいはいくつか、自分なりに掘り下げてみたいと思うような問題系が姿を現しつつあるので、それをより明確にしてきたい。





どうなることやら。





ひとまずは、自分自身の体験を踏まえて、人が誰かと出会い、家族をなし、経済を作っていくとはどのような事象なのか、を考えてみたい。個人のライフサイクルにおける一連の「イベント」と、マクロ的な規模での経済事象との関わり、を歴史的なスパンを視野に入れて考えてみたい。





というと、なんだか壮大なテーマであるが、要するに、人は「個」であると同時に「種」なのである、ということが全面的に葛藤を孕んだ事象として浮かび上がってくる、顕在化する、のが、我々の生きている、今、という時代の一つの特徴、歴史的位置なんだ、という認識がまずあって、それを「私」という個人の経験、ないし、認識の次元から、考えてみたいのです。焦らず、じっくりとね。
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