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- 01/07 「欲望の思想」の身体主義と、「身体の工学化」について
- 11/10 大学能楽サークルには「内向き」な人たちが集まることについての考察から、「不器用な人たち」の文化史まで
- 09/25 株主の共同相続と「準共有」
- 09/22 美容師さんと私
- 09/17 働き方改革と管理職
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百合さんの言葉が一番印象的だったかな。自分に呪いをかけないで。それな、って思った。
みくりさんが理想的な嫁じゃない、ってところが、ガッキー神話に対する不意討ちにもなっていたし、そこが好感持てる。小賢しいとは思わない、なんていう津崎さんが最後にしっくりくる。保守的な価値観を柔軟に落とし込んでいく手際とか見極めが、アラサー世代の感覚を掴むのだろう。
ゴールを安易に設けない姿勢は、それだけ人と人との結びつきのあり方が混迷の時代を迎えている証左でもあるのだろう。しかし、それはまったく答えを出さない相対主義とも違う。それは、まさしく「二人で二人を乗り越えていく」一つの実験なのだろう。
世代感覚と時代性をうまく掴んでいたドラマだと思うが、同時に極めて言語的な作品だったと思う。いわく、「小賢しい」成分が多少多目に含まれている。その小賢しさが、ある意味でリアルな大衆性を帯びている現状というのは、私が居心地がいいと思える世界ではない。
面白いドラマだったと思う。けれども私はそこに、大文字のテーマ性を見出だしたくはない。ロゴスに訴える大衆ドラマ作品のテーマ性を掘り下げるということは大衆的なロゴスを認めるということ。卑近な世界をロゴスで埋める営みに、私は参画したくない。
森山みくり的な小賢しさが津崎というロゴスによって包容される世界に大衆性を与えるのは無謀ではないか。逃げ恥にはそういう不健康さがある。恋ダンスの愛らしさは、逃げ恥が抱える過剰なロゴスの裏返しなんですよね。作品本体が過剰な言語性を抱えているからこそ、非言語的な恋ダンスが際立つ。
だから私は、津崎さんの「小賢しいとは思わない」という台詞にホッとした。大衆性を守ったという意味で、あの台詞は救いである。小賢しい女がロゴスな男と向き合うという過剰に言語的な物語が、小賢しい女が小賢しさから束の間自由になるという大衆性(情動)の物語にうまく逃げおおせた瞬間。
私はそれだけ大衆性を愛してやまない。ベタで王道であることを愛してやまない。「好きの搾取」など問題ではないとすら思っている。物語にスパイスを添えるロゴスは歓迎できるが、物語がロゴスそのものであることには耐えられない。物語とは、大衆的であるべきものだ。
だから私は「好きの搾取」を問題にするみくりではなく、「小賢しいとは思わない」という津崎の言葉で物語が締められたことに安堵するのだ。それこそが、逃げ恥に散りばめられた過剰なロゴス、すなわち蘊蓄を活かし、腐らせないために必要なことだったのだと思う。
一方で、本来大衆的な安堵感の対極にあるべきロゴスの息苦しさがムズキュン的要素に紛れて現代生活のトレンドに取り込まれていく世界というのは「痛々しい」と思える。日常で使われるネット用語やニュース番組で流れるTwitterのつぶやきと似た感じの痛々しさがある。
私はそういう痛々しさを不健康さと勝手に言っている。本来インテリの戯言であるようなロゴス中心的な言説が大衆性を獲得する現象は近年特に見てとれるが、逃げ恥現象もそのうちの一つに数えられるのではないか。日本死ね、が流行語大賞に選ばれる文脈と相似性があるのだ。
日本死ね、の主張の中味には共感できるがそれが流行語大賞に選ばれることに不快感を抱くのと似たような次元で、ドラマとしての逃げ恥を評価し、それが受け入れられ、分析される世界に嫌気がさす。無節操なロゴスの氾濫は敵である。害悪である。
みくりさんが理想的な嫁じゃない、ってところが、ガッキー神話に対する不意討ちにもなっていたし、そこが好感持てる。小賢しいとは思わない、なんていう津崎さんが最後にしっくりくる。保守的な価値観を柔軟に落とし込んでいく手際とか見極めが、アラサー世代の感覚を掴むのだろう。
ゴールを安易に設けない姿勢は、それだけ人と人との結びつきのあり方が混迷の時代を迎えている証左でもあるのだろう。しかし、それはまったく答えを出さない相対主義とも違う。それは、まさしく「二人で二人を乗り越えていく」一つの実験なのだろう。
世代感覚と時代性をうまく掴んでいたドラマだと思うが、同時に極めて言語的な作品だったと思う。いわく、「小賢しい」成分が多少多目に含まれている。その小賢しさが、ある意味でリアルな大衆性を帯びている現状というのは、私が居心地がいいと思える世界ではない。
面白いドラマだったと思う。けれども私はそこに、大文字のテーマ性を見出だしたくはない。ロゴスに訴える大衆ドラマ作品のテーマ性を掘り下げるということは大衆的なロゴスを認めるということ。卑近な世界をロゴスで埋める営みに、私は参画したくない。
森山みくり的な小賢しさが津崎というロゴスによって包容される世界に大衆性を与えるのは無謀ではないか。逃げ恥にはそういう不健康さがある。恋ダンスの愛らしさは、逃げ恥が抱える過剰なロゴスの裏返しなんですよね。作品本体が過剰な言語性を抱えているからこそ、非言語的な恋ダンスが際立つ。
だから私は、津崎さんの「小賢しいとは思わない」という台詞にホッとした。大衆性を守ったという意味で、あの台詞は救いである。小賢しい女がロゴスな男と向き合うという過剰に言語的な物語が、小賢しい女が小賢しさから束の間自由になるという大衆性(情動)の物語にうまく逃げおおせた瞬間。
私はそれだけ大衆性を愛してやまない。ベタで王道であることを愛してやまない。「好きの搾取」など問題ではないとすら思っている。物語にスパイスを添えるロゴスは歓迎できるが、物語がロゴスそのものであることには耐えられない。物語とは、大衆的であるべきものだ。
だから私は「好きの搾取」を問題にするみくりではなく、「小賢しいとは思わない」という津崎の言葉で物語が締められたことに安堵するのだ。それこそが、逃げ恥に散りばめられた過剰なロゴス、すなわち蘊蓄を活かし、腐らせないために必要なことだったのだと思う。
一方で、本来大衆的な安堵感の対極にあるべきロゴスの息苦しさがムズキュン的要素に紛れて現代生活のトレンドに取り込まれていく世界というのは「痛々しい」と思える。日常で使われるネット用語やニュース番組で流れるTwitterのつぶやきと似た感じの痛々しさがある。
私はそういう痛々しさを不健康さと勝手に言っている。本来インテリの戯言であるようなロゴス中心的な言説が大衆性を獲得する現象は近年特に見てとれるが、逃げ恥現象もそのうちの一つに数えられるのではないか。日本死ね、が流行語大賞に選ばれる文脈と相似性があるのだ。
日本死ね、の主張の中味には共感できるがそれが流行語大賞に選ばれることに不快感を抱くのと似たような次元で、ドラマとしての逃げ恥を評価し、それが受け入れられ、分析される世界に嫌気がさす。無節操なロゴスの氾濫は敵である。害悪である。
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