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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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伝統芸能は身体にいい、という言説をたまに見る。



このことの真実はさておき、伝統芸能の世界に片足を踏み入れることが健康に繋がるという保証はなく、むしろ人間を不健康にすることのほうが多いのではないか。



と、いうようなことを考えるに至ったのは、先日、友人が出演する舞台を見に行った時である。正直、なんて健全な世界にいるんだろうと思った。劇団員、というと、世間では良くも悪くもアングラなイメージを与えられ、「健全さ」からは程遠い印象を持たれている方も多いかと思う。現に、私はそんなステレオタイプを抱いていた。



今でも、そういう偏見が消えたわけではない。劇団員、というとなにかチャラチャラしてそう、だというイメージは残念ながら、劇団員という世界に関心を持つ青年淑女諸君にとっても、魅力にこそなれ、そこから遠ざけるマイナスイメージとはあまりならないだろう。だが、その話はここでは直接関係がない。



伝統芸能の世界が不健康であり、現代演劇の世界が健康である、というのは極論かもしれない。おそらくそうだろう。伝統芸能といっても、私が知っているのはその中でも「能楽」という一部門の、さらにほんの一部の世界でしかないし、現代演劇の世界に関しては全くの素人に等しい。しかしそれでも、最初に述べた私の感慨にはそれなりの理屈がある。



まず、伝統芸能に世界に片足を突っ込もうとする人たち(両足ではない)には、多かれ少なかれ、それが「伝統芸能」であることに価値を見出している人たちが多い、ということがまず挙げられる。現代演劇の世界は常にフロンティアであるから、確立された権威なるものを身にまとう昂揚感といった要素は、皆無ではないにしても、外部からその世界に新しく参入しようとする人々を引き付ける主因になるものではない。ところが、伝統芸能、殊に、参入障壁の比較的ゆるいものにはこうした「伝統」を身にまとうこと自体が、「自分に箔をつける」ことになると無意識的にしろ、意識的にしろ、考えている人々が一定数存在する。いや、「一定数」という言い方はかなり甘めにつけたもので、実際には「大半は」と言い換えてもいいくらいかもしれない。



かつて、私が伝統芸能の世界に触れてみたくなったのも、それが「伝統芸能」であるというそのことから離れて理解することは適当ではないだろう。私は確かに、それが「能楽」だから、600年も続く伝統だから、興味を覚えた、関心を抱いた、ことは否めない。そして、それがある種の「権威」を帯びているからこそ、その世界の一端に触れてみたいとも思った、これが理由のすべてではないにしろ、この、確立された権威である、という一点をのぞいたら私は他のサークルに行っていたかもしれない。



伝統芸能を稽古している、ということは、それ自体がある種のステータスになることは否めない。それは歴史的に見ても、不可避的に「教養」なるものと結びついてくる。良家の子女はみなこぞってお琴やお茶や書道の稽古に励む。そんな時代もあったし、今でも部分的にはそうだ。だから、こういう世界において伝統芸能を習う、というその事実が持つ社会的意味付けを捨象してその精神性のみを問うことはかえって無意味なことなのかもしれない。けれども、先日、舞台で友人の姿を見て、果たして本当に私は、彼と同じ、「舞台の稽古をしている」と言えるだろうか?と自分に問いかけずにはいられなかった。私は彼と同じ「稽古」なんてしていないじゃないか。自分の芸の上達のみを目指して自分の全精神性をかけて稽古に臨んでいる彼の姿から見て、私のやっていることはなんて「不健全」なんだろう、と。



同じ「アマチュア」でも覚悟と矜持が違う。そのように思わせられることもある。何しろ、向うは自分で上達しなければレゾンデートルが保てない。劇団員である、ことには殆ど意味がない。よい役者にならなければならない。そこにすべてを賭けなければならない。伝統芸能において「アマチュア」というのは、常に背後にそうした伝統を重んじる世界が横たわっていて、自分自身の未熟さを救ってくれることがある。演技は下手だ。だがしかし伝統芸能だ。それがなんだ、という話だが、実際そうなのだから仕方がない。



よいアマチュアでいるためには健全な自意識を育むことが大切であると思う。つまり、あまり図に乗るな、ということである。自分はいつまでも未熟者であり、習練が必要である。日々修業。日々鍛錬。没自我。こういう謙虚さ。伝統芸能の世界に「片足を突っ込む」アマチュアにはその伝統それ自体が自らを何者かにしてくれるのではないか、という淡い期待を抱かせる誘惑が大敵となる。これに打ち克つことは容易ではない。なぜなら、その誘惑それ自体が、当の本人をその世界に引き留めている引力の源でもあるからだ。



伝統芸能の世界にアマチュアでいる、ということにはかくして誘惑が多い。自意識を堕落させてしまうような不健康さがどうしても付きまとうのである。ここで「王道」ということが重要になる。正々堂々と、正面から芸事に励み、常に謙虚な態度で臨むこと。それが、王道を行く、ということではないだろうか。よきアマチュアでいる、ということは、王道を行く、ことでなければならない。別の世界にいる他者を僻んだり、迂遠なことをして妙な自意識の慰め方をしないことである。王道、とは、自意識過剰が矯正される場でないか。同じ道を究めようとする者たちが客観的に自分の芸の未熟さを見つめ、上達へ精進することができる道こそが「王道」というべきなのだ。



現代演劇の劇団員には常にこの「王道」を行かねばならないという誘因が存在する。常にフロンティアの世界では、自意識の慰めなどまったく無意味だからだ。伝統芸能の世界、そこへアマチュアとして参入するということはこの「自意識の慰め」という逃げ道をいかに潔く回避できるかが「王道」とそれ以外とを分かつ重要な岐路となる。



さて、この「自意識の慰め」というのは現代の「知識消費社会」のエッセンスとも言える。



我々は常に他者と違った存在でありたいと願い、市場がその願いをかなえる。願望充足の機会はいまや、ありふれてるとすら言える。様々な通信講座や資格、学位、同人サークルなど。私は私の望むものに、時間と費用をかけさえすれば、なることができるような、そんな感じがする。



でも、本当にそうだろうか?



私は私のなりたいものになれる、そんな欲望が市場を支え、市場を作っている。私は単に、願望充足の市場に流通する「商品」に過ぎないかもしれない。あるいは、お客さん?



単に「消費者」でしかない、という自嘲から自分自身を救い出すものは自分が生産者であり得るという「妄想」に過ぎないのだろうか。「伝統芸能」の世界は、そんな知識消費社会から遠いところにあるようで、実は本当に近いところにある気がしている。そういう意味で、伝統芸能の敷居が高いとは、必ずしも思わない。



ここまで書いてきて、「健康」と「不健康」についてもう少し自分なりに掘り下げた見解を提示しなければならないように思われてきたのだが、これはまた別の機会にしよう。

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