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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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人工頭脳が政治や行政の場に進出する時、そこで生じる問いは、究極的には、「人間は人間以外のものに『正義』の問題を委ねることができるのか」という問いだと思っている。




国会議員たちの喧々諤々の議論よりも、AIのほうが「効率的な社会政策」を導き出せるはずだ、という人もいる。けれども、喧々諤々の議論の末に出てきた結論に我々が納得しないからといって、人工頭脳が導き出した「答え」に対して我々が難癖をつけないだろう、とどうして言えるのだろう。




最終的な審級を人間以外のものにする、これは「革命」とも思える。けれどミクロな部分では、そうした「革命」はすでにじわりじわりと浸透してきているのではないか、という気もする。




様々な手続きが簡単になる、便利になるということは、そこに働いていた判断作用がいかなる性質のものであったのかを忘れさせる。「あれかこれか」という選択肢が示された時点で、もはや人間には「あれかこれか」しか選択の余地はないのである。これはどういうことか。




裁判官に「権威」があるのは「自由心証主義」だからですよね。裁判官は最終的な審級であると同時にその判断には裁量という名の自由がある。だからこそ「正義」が実現できるのだともいえる。裁判官の「良心的な判断」というやつね。




人々が待ち望んでいる答えが「正義」なんじゃない。こうあるべき、なのに、そうならない、時に正義が実現する余地がある。こうあるべきものがそうなっている時には「正義」は問題にならない。




だから、「あれかこれか」という場では「正義」の話なんてできないわけです。あれでもなく、これでもない、という判断作用が可能であるという状況の中で「正義」の問題は出現するのだから。




そういう意味では、正義とは「秘められたもの」であるともいえる。あれでもなくこれでもない、という状況の中で示されるものに対する「期待」こそが、正義を出現させる。正義は期待なのだ。期待は秘められていなければならない。漠然としていなければならない。




だから、漠然とした不安、ないし、その裏面としての期待のないところには正義は出現しない。あれかこれか、という世界にはその漠然さが足りない。




ミクロな部分での変化を追う、というのは面白い。「電子認証システム」なんか、あんなものがなぜ「認証」になるのか、ということは純粋に法的思考からは説明がつかないことだから。




何を信じるか、ということですよね。何が信頼できるのか、というのは社会的な感受性の問題なのだ。だからどちらかというと、社会心理学とか社会学とかの問題なんだと思う。


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