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「そもそもこの問題が解決可能なのかという問題は残る。ここまで、偽の手がかり問題を軸に作品を分析してきた結果、むしろその解決不能の難問を、いかにして解決しているかのように見せかけるのかということが、本格ミステリの変容を生み出してきたと把握する方がより適切なのかもしれない。」同書、p,114.



この研究の功績の一つは、所謂「後期クイーン的問題」と言い慣わされる「探偵小説の不完全性定理」に纏わる問題点は、ロジックにあるのではなく、むしろ、レトリックにこそあるのではないかと指摘した点だと思います。



新本格ミステリがブームを巻き起こした時代状況というのは、日本においては特に人文研究の界隈で「言語論的転回」というパラダイムシフトが起きていた時期と重なる。これは歴史学においては、二宮宏之先生が指摘していたように、「物語り論的転回」と呼ぶべき展開を辿った。最近完訳が成ったヘイドン・ホワイトの『メタヒストリー』の紹介や、野家啓一氏の物語論、富山太佳夫氏や上野千鶴子氏の歴史学に対する批判などが出てくるわけだが、ミステリ界隈においては新本格ムーブメントがそれの対応物になるのではないか、というのが私の見方。



そもそも社会派ミステリの「リアリティ」に対する新本格派の批判というのは、突き詰めれば、「テキスト」としてのミステリ小説をどう構築するか、という点に帰着するように思えるのだけど、新本格派はミステリのテキスト性により意識的だったと言えるのではないか。単純化するなら、新本格派の登場はミステリが「社会のリアリティ」の表現なのではなく、テキストに過ぎないことを認めた上で、フィクションとしての可能性を意識的・人工的に、更にはメタ的に追及した一群の作品であると認識できるのではないか、ということに思い至る。



このようにして見るならば新本格派が担うリアリティ(真実の真実らしさ)と、社会派の担うそれがまるで違うものであることが了知できる。ナラティヴの可能性と「物語としての歴史」を意識的に方法論の中に取り入れた歴史家の著述が日本に紹介されるようになってきたのと同じ時期に、物語、フィクション、メタ構造を強く意識した作品がミステリの流れに登場してきたことは偶然ではないはず。



従来その「ロジック」の解析ばかりに焦点が当てられてきたミステリ研究(そもそも文学研究者がミステリ研究に本格的に参入してきたのはこの研究が端緒である)に「レトリック」の重要性を指摘してみせた本書の射程は、「他の時代・他の社会の本格ミステリでも、その時々の何かがその穴を塞いでいるはずだ。」という指摘に示される。エラリー・クイーンの時代において推理小説の「確からしさ」を支えたものが何であったのか?これを問うことはつまり、各々の時代には各々の時代の確からしさがある、という認識を前提に据えて歴史を読むということに他ならない。勿論、こうした認識は「ポスト・トゥルース」の時代における認識論を考察する際にも意義あるものとなる。その意味で、本書の問題提起は広く、深い。

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