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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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内閣府のホームページに「かりゆしウェアとアロハシャツの違い」という項目があるけども、素材についての言及は特にない。「違い」として言及されているのは、語源・起源・絵柄の三点についてである。かりゆしとアロハは歴史的起源が異なるので、違うものだという説明は有効だろう。けれども、仮にハワイが日本の領土になっていたとしたら、アロハもかりゆしも同じもの、として扱われたのではないだろうか。これは非常に微妙なポイントである。





かりゆしウェアを、伝統的な日本の衣装だとするいわば「公式の」言説に対して、いや、アロハと同じものでしょう、というと、反感を抱かれる。つまりこれは政治的な話で、かりゆしウェアを公務員が着用することには沖縄に対する微妙な政治的配慮がないとは言えない。





ただし、例えば藤沢市や茅ヶ崎市など、神奈川県の湘南地域の自治体では夏場に職員が「公式のアロハシャツ」を着ている。これはかりゆしではないが、公式に認められたアロハシャツなのである。つまり、この文脈でいえば、かりゆしは公式であり、アロハはそうではない、とは一概には言えないことになる。





ちなみに官庁によっては、アロハの着用には否定的だけれども、かりゆしならば積極的にOKというところもある。そういう官庁では、仮に藤沢市や茅ヶ崎市の「公式のアロハ」であっても、アロハである以上、着用の是非は否定的に解されざるを得ないだろう。





一般的に、アロハよりもかりゆしのほうが絵柄が大人しく、従ってより公の場面での着用に適しているとされる。先ほどの内閣府のホームページからもそのような観念が窺えるが、大人しいアロハ、派手なかりゆし、はどうなるのか。「常識に委ねる」というのが現実的な対応であろう。





つまり色彩やデザインの許容幅については各個人の「常識」に委ねつつも、政府としては、アロハではなく、かりゆしを、クールビズとして推薦しているという話になる。その違いとして公式に強調されているのは、「起源」であり、「絵柄」については、あくまで非公式な言及に留まっている。





ちなみに私は「ハイビスカス柄のかりゆし」を持っているのですが、これなんかはアロハに限りなく近い、というよりも、これをアロハと区別する要素は本質的には何もないと言える。ちなみに沖縄の国際通りなんかには「かりゆし・アロハ専門店」なんかもあります。横断的なジャンルとして認識されている。





かりゆし的な何か、アロハ的な何か、がそれをかりゆしにしているのであり、アロハにしているのである。しかし、アロハを着ること以上にかりゆしを着ることには政治性が付きまとっている。本土の公務員がかりゆしを着ることと沖縄の公務員がかりゆしを着ることの間には異なる政治的言語が含まれている。





沖縄の公務員がかりゆしを着用することには、沖縄のリージョナリズムの主張が含まれているのに対し、本土の公務員(殊に国家公務員)がかりゆしを着るということには、「日本の一部としての沖縄」を尊重する、というメッセージが暗に含まれている。リージョナリズムとナショナリズムのせめぎあい。





翻って考えてみるなら、藤沢市や茅ヶ崎のアロハは、いわば「湘南のかりゆし」なのであって、湘南の公式的なリージョナリズムを示しているとも言える。けれどそこには、沖縄のかりゆしには見られたナショナリズムの包摂はない。湘南のかりゆしは湘南のアロハに留まらざるを得ないのである。





それが、かりゆしを「日本の伝統衣装」という意味である。アロハは、それがどれだけ地域のリージョナリズムに根差していようと、アロハである以上、ナショナリズムには包摂され得ない。しかし沖縄のかりゆしは、ナショナリズムの表象たり得るのである。かりゆしをアロハから決定的に異化するもの。





かりゆしはリージョナリズムとナショナリズムの葛藤の中にある。それは、政治的妥協点とも言えるし、緩衝地帯であるとも言える。だからこそ、かりゆしは特権的なウェアなのである。リージョナリズムとナショナリズムという和解し難い理念の間、親愛の印として、また、対抗意識の発露としての。
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