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- 01/07 「欲望の思想」の身体主義と、「身体の工学化」について
- 11/10 大学能楽サークルには「内向き」な人たちが集まることについての考察から、「不器用な人たち」の文化史まで
- 09/25 株主の共同相続と「準共有」
- 09/22 美容師さんと私
- 09/17 働き方改革と管理職
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久々にいろんなことをぶちまけてしまった気がする。
いや、「ぶちまけた」というよりも、「垂れ流した」というほうが正しい。
話をすることでできることは問題の解決なのではなく、問題の整理なのだと、わかってはいても、どうも今回は自戒したい。でも、あの時間は必要だったのだろうな、自分としては。
同性同士で素泊まりデートしてやることといえば相場は決まっている。そういう話をするためにわざわざこの機会を作ったのだ。
ずっと、考えていた。あれをどうするか。この問題にどう「決着」をつけるべきか。最初から友人の「アドバイス」を期待していたわけではない。自分の中で漠然と抱いている思いに確信を与えたかっただけなのだろう。
しかし、どうもあては外れたかもしれない。
話せばうまく整理できる、と思っていた。でもダメだった。何度も最初の問いに戻ってしまう。出てきた所に何度も戻ってしまう、方向音痴の迷路巡り。
つまり自分の「決断」次第なのだ、と何度も同じ結論に還る。それを認めたくないわけではない。でもそれを躊躇する自分がいる。躊躇の理由はわかっている。Aという選択を採る場合はXのことが気にかかり、Bという選択を採る場合にはそれを採った時に同時にAもXも失うということを意味する。要するにXの問題を自分の中でどうけりをつけるか、ということがここに絡んでくる。それができないでいるから、Aの道もBの道も選べないでいるのだろう。
ここまで分かっていながら「整理されていない」とはどういうことか、とこれを読んだ人(こんなものを読む物好きな人がいればの話だが)は思うかもしれない。
この問題を複雑にしている要素はまだある。それは、そもそも自分がAとBという二つの選択肢を選べる立場にあるのか、ということである。もし最初から選ぶことなどできないのだとすれば、この問題は様相を変貌させることになる。しかしいずれにせよはっきりしている唯一のことがあり、それは、自分にとってXという存在が非常に重要な位置を占めているということなのだ。
僕にとってXの痕跡は、今から振り返ると自分自身のかなり大きな部分を占めていることがわかる。意識の上層に上がってこない時でも、ふとした時に意識していることがある。何より今の自分自身のものの見方、考え方にかなり影響を与えている。自分の人生において、未だかつてこれほど大きな痕跡を残した存在はない。
でも、だからこそ、自分の中で「けり」をつけなければならないのだ、ということもよくわかっている。このまま行けば、僕はいつまでもXの影に悩まされることになるだろう。それはとても生きづらい人生を歩むことを意味する。だが、そもそもXを「忘却」することなどできるのか?それはおそらく無理だろう。時間は最高の妙薬だというが、これに関してはもう無理だと断言できる。僕にとってXの痕跡はあまりにも大きすぎ、深すぎる。
だが、だとしたらどうすればよいのか。このまま何もかも放置することはできないが、行動することで失われるものが何かが未だ不明瞭なのが僕の決断を遅らせている最大の理由なのかもしれない。何かを得ることで何かを失うのは当然の理だ。僕はそのこと自体は仕方ないことだと思っているし、仮に何かを失ったとしてもそれを受け入れるつもりではいる。しかし、得るものも失われるものも不明瞭な状況で「決断」をしなければならないとしたら、どうにでもなれ、という開き直りが少しは必要になるかもしれない。
そういう開き直りができるのはいつになるのか。
いづれにせよ、Xの痕跡とこれからずっと付き合っていかなければならないのだとすれば、僕に本当の意味で心の平安が訪れることはないかもしれない。それは仕方のないことだ、だから腹を括れ。
そうだ、腹を括るしかない。長い痛みに、耐えるために。
それができないのは、まだ「可能性」を信じているからなのかもしれない。本当に馬鹿だなあ、と思う。こんな馬鹿になってしまったのも、何かもあいつのせいである。
あの時、決着をつけたつもりだった。僕としては。
でも、はじめから無理だったのかもしれない。
決着をつけることなんて。
そうやって「けり」のつかないものをずるずると引きずっていくのが人生というものなのだろうか。たぶんそうなのだろう。大人というのはそういうものなのだろう。
けりがつかない、のではなく、けりをつけたくない、のかもしれない。
不可能性に振り回されながらも、それを自分で望んでもいるのだ。
たぶん無理だとわかっている。でもいつまでも開いた扉をそのままにしておきたい自分がいる。可能性は「希望」の言い換えだ。「絶望」したくないから、可能性をそのままにしておきたいのだ。
しかし、「選択」は、しなければならない。
決断しなければならないと思う。
たとえ得るものがなく、失うものしかないのだとしても、選択を放棄することはできないだろう。
その前に、どういう段取りで行動するのが一番後悔しないで済むか。ちゃんと考えておこうと思う。そのくらいの時間はまだ、少しはあると思う。
改めて考える。もし、Bという選択をとるとして、そこから先にXという可能性の成就にひたすら賭けるのか。それはもう、通常の意味で現世においてXを含む世界と断絶することを覚悟しなければならない。Aという選択は確かにXの可能性の完全なる放棄であるけれども、Bという選択を採るにしても、Xの可能性の成就以外には「断絶」しかありえないのだ。僕はXを含む世界が好きだ。要するに、「可能性の成就」以外で、「Xを含む世界」を認められるかどうか、にすべてがかかっているとも言えるかもしれない。
僕はそういう世界を望んでいるのか、それとも、あくまで「可能性の成就」にこだわるのか。
いや、「ぶちまけた」というよりも、「垂れ流した」というほうが正しい。
話をすることでできることは問題の解決なのではなく、問題の整理なのだと、わかってはいても、どうも今回は自戒したい。でも、あの時間は必要だったのだろうな、自分としては。
同性同士で素泊まりデートしてやることといえば相場は決まっている。そういう話をするためにわざわざこの機会を作ったのだ。
ずっと、考えていた。あれをどうするか。この問題にどう「決着」をつけるべきか。最初から友人の「アドバイス」を期待していたわけではない。自分の中で漠然と抱いている思いに確信を与えたかっただけなのだろう。
しかし、どうもあては外れたかもしれない。
話せばうまく整理できる、と思っていた。でもダメだった。何度も最初の問いに戻ってしまう。出てきた所に何度も戻ってしまう、方向音痴の迷路巡り。
つまり自分の「決断」次第なのだ、と何度も同じ結論に還る。それを認めたくないわけではない。でもそれを躊躇する自分がいる。躊躇の理由はわかっている。Aという選択を採る場合はXのことが気にかかり、Bという選択を採る場合にはそれを採った時に同時にAもXも失うということを意味する。要するにXの問題を自分の中でどうけりをつけるか、ということがここに絡んでくる。それができないでいるから、Aの道もBの道も選べないでいるのだろう。
ここまで分かっていながら「整理されていない」とはどういうことか、とこれを読んだ人(こんなものを読む物好きな人がいればの話だが)は思うかもしれない。
この問題を複雑にしている要素はまだある。それは、そもそも自分がAとBという二つの選択肢を選べる立場にあるのか、ということである。もし最初から選ぶことなどできないのだとすれば、この問題は様相を変貌させることになる。しかしいずれにせよはっきりしている唯一のことがあり、それは、自分にとってXという存在が非常に重要な位置を占めているということなのだ。
僕にとってXの痕跡は、今から振り返ると自分自身のかなり大きな部分を占めていることがわかる。意識の上層に上がってこない時でも、ふとした時に意識していることがある。何より今の自分自身のものの見方、考え方にかなり影響を与えている。自分の人生において、未だかつてこれほど大きな痕跡を残した存在はない。
でも、だからこそ、自分の中で「けり」をつけなければならないのだ、ということもよくわかっている。このまま行けば、僕はいつまでもXの影に悩まされることになるだろう。それはとても生きづらい人生を歩むことを意味する。だが、そもそもXを「忘却」することなどできるのか?それはおそらく無理だろう。時間は最高の妙薬だというが、これに関してはもう無理だと断言できる。僕にとってXの痕跡はあまりにも大きすぎ、深すぎる。
だが、だとしたらどうすればよいのか。このまま何もかも放置することはできないが、行動することで失われるものが何かが未だ不明瞭なのが僕の決断を遅らせている最大の理由なのかもしれない。何かを得ることで何かを失うのは当然の理だ。僕はそのこと自体は仕方ないことだと思っているし、仮に何かを失ったとしてもそれを受け入れるつもりではいる。しかし、得るものも失われるものも不明瞭な状況で「決断」をしなければならないとしたら、どうにでもなれ、という開き直りが少しは必要になるかもしれない。
そういう開き直りができるのはいつになるのか。
いづれにせよ、Xの痕跡とこれからずっと付き合っていかなければならないのだとすれば、僕に本当の意味で心の平安が訪れることはないかもしれない。それは仕方のないことだ、だから腹を括れ。
そうだ、腹を括るしかない。長い痛みに、耐えるために。
それができないのは、まだ「可能性」を信じているからなのかもしれない。本当に馬鹿だなあ、と思う。こんな馬鹿になってしまったのも、何かもあいつのせいである。
あの時、決着をつけたつもりだった。僕としては。
でも、はじめから無理だったのかもしれない。
決着をつけることなんて。
そうやって「けり」のつかないものをずるずると引きずっていくのが人生というものなのだろうか。たぶんそうなのだろう。大人というのはそういうものなのだろう。
けりがつかない、のではなく、けりをつけたくない、のかもしれない。
不可能性に振り回されながらも、それを自分で望んでもいるのだ。
たぶん無理だとわかっている。でもいつまでも開いた扉をそのままにしておきたい自分がいる。可能性は「希望」の言い換えだ。「絶望」したくないから、可能性をそのままにしておきたいのだ。
しかし、「選択」は、しなければならない。
決断しなければならないと思う。
たとえ得るものがなく、失うものしかないのだとしても、選択を放棄することはできないだろう。
その前に、どういう段取りで行動するのが一番後悔しないで済むか。ちゃんと考えておこうと思う。そのくらいの時間はまだ、少しはあると思う。
改めて考える。もし、Bという選択をとるとして、そこから先にXという可能性の成就にひたすら賭けるのか。それはもう、通常の意味で現世においてXを含む世界と断絶することを覚悟しなければならない。Aという選択は確かにXの可能性の完全なる放棄であるけれども、Bという選択を採るにしても、Xの可能性の成就以外には「断絶」しかありえないのだ。僕はXを含む世界が好きだ。要するに、「可能性の成就」以外で、「Xを含む世界」を認められるかどうか、にすべてがかかっているとも言えるかもしれない。
僕はそういう世界を望んでいるのか、それとも、あくまで「可能性の成就」にこだわるのか。
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