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「私が私であること」というのはそれほど自明なことでもない。要するに、一人一人が行うすべての行動について政府が情報管理をするならそういう証明は、「私です」と一言言えば足りる。でもそれはSFの世界の話。
しかし多くの人はおそらく「私が私であること」を「証明」することがそれほど困難なことだとは思っていない。いつ、誰が、死んで、生まれたか、といったようなことは「届け出」がない限り捕捉されないのだけど、「届け出」という積極的な意思を介さずとも誰かがすべてを知っている、という意識がおそらくある。
だから、「実体」と「手続き」が混濁して捉えられる傾向にある。(それはどこの国でも多かれ少なかれそうかもしれない)つまり、手続きをしなければ「相続」はおこらない、というような誤解など。「法律上当然に発生する」という文言は普通の人にとっておそろしく不安な表現なのだと私は思っている。(「当然に」そうなっているのかどうかは「目に見えない」からかもしれない)
「無戸籍」という事案において重要なのは、まさにこの点で、私が生まれて現に生きている以上、「私が私である」ことを疑う人はまずいない。意識の上では、「私」の存在は自明なのだ。(これはデカルト的である)ところが、その「自明性」を担保しているのは自治体の捕捉作業なのであり、どこまでも人の手が加わっている。
あるいは、「なぜ気づけなかったのか」という問いもこの問題と同一平面上にあると言えるかもしれない。そこでは「気づく」ことが自明視されているからである。気づく、こと以前に、気づくための「事実」を捕捉するための手掛かりがなければならない。そしてそれはどこまでいっても「手掛かり」でしかないのである。(こういうと何とも心もとない)
裁判所でも、私が私であることを裁判官が証明してくれるわけではない。もちろん、「釈明権」というものがあるけども、裁判官はいつも「真実」を明らかにしてくれるわけではない。要するに、民事的な「市民的感覚」というのは「私が私であることを証明できること」に他ならないと言えなくもない。そしてそれは人々の積極的な行動を必要とするが故に、「めんどくさい」ものでもある。
その「めんどくささ」の担保には何が賭けられているのだろうか?あえて答えは留保したい。
だが、ここでちょっと飛躍させてみる。もし、冒頭に述べたように「一人一人が行うすべての行動について政府が情報管理をする」ような世界があるとしたら、そうした世界では「めんどくさい」「私が私であること」の証明は本当に必要とされないのだろうか?と。これは哲学的であるし、SF的でもある。
だから実は、本当に、「私です」と一言言えば足りる、のかどうか?私にはちょっとよくわからない。