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「感想」なんて二行くらいに収まるよね。普通に書けば。わざわざ原稿用紙に長々と書かせるのは、心の中のことを言葉にすることを要求しているのではなく、「感想文」という「文体」を要求しているということなんだよ。
「国語」でやるような、文章を書く訓練、というのは、思いを言葉にする訓練というよりも、言葉で思いを作り出す造形の訓練、みたいなところがある。「思い」が先にあるかどうかなんてことは実はどうでもいい。それっぽいこと、が書けるかどうかなのだ。
文章が書けるようになると、思い、もついてくるだろう。「身に付いた形」は「身」と見分けがつかなくなる。文章という「形」を造ることを通じて、「感想」が生まれてくるのではないだろうか。
そういう意味では、「文章を書かせる訓練」という、一見すると価値中立的な教育にも、道徳的色彩が付きまとう。「文章が書けない人」は思い抱いたものを言葉にする力がついていない、ということで訓練の対象にされる。しかし、結局、ありきたりの言葉でありきたりの「感想」を綴る訓練をさせられているに過ぎない。
読書感想文、なんて、どうあがいても面白いものになるはずがないし、すべての人が何らかの思いを持つと想定している時点で、「形式による道徳」なんだよ。書く、という行為によって、「感想」なるものを造り出させる道徳的教育。
やっぱ予備校の先生、って、研究者くずれが多いのか。「うちくる」での林修氏の話。
「この業界には挫折を経験している人が多い」というのは、「挫折を経験できた人が多い」ということなんだろうな。挫折を「挫折」として認識し、それを糧にして生きていくという意思があるからこそ、その場所にいることができるんでしょう。客観的な意味での挫折、なんてものはない。
挫折経験、みたいなものって、いろいろ種類があるけれど、そもそも「挫折」を「経験できない」人もたくさんいる。世渡りがうまい、とか、そういうことじゃなく。その人が「挫折」だと思わなければ、その人の人生における経験としての挫折は存在しないわけで。
目の前のことに夢中になる、という経験をしたことのない人にとっては挫折経験はないだろう。挫折、というのは「勢い」があってこその「挫折」なわけで、そもそも「のめり込む」という前段階を必要とする。ESとかで挫折経験の有無を問うのは、そういう理由からだろう。
けれど、もう一つ別の角度からの考察を加えると、「披瀝できる挫折」と「披瀝できない挫折」があると思う。社会的に価値づけられているのは前者で、後者はだいたい無意識のレベルに追いやられてしまう。これがいわゆる「黒歴史」なんだろう。
そういう黒歴史だって、昇華さえできれば成長の糧にはなる。けれど、黒歴史はそもそも他者に披瀝できる社会性を持たないから、社会的過程としての昇華は起こりにくい。そういう黒歴史的な体験の方が重みを持っている人にとっては、表向きの挫折経験なんて、実に潔癖で薄っぺらいものに見えることだろう。
「黒歴史」とは、個人が社会化されていく過程で、昇華される術を与えられないまま無意識の底に沈殿した、いわば、「社会的存在としての人間の残りカス」みたいなもんだと思う。ネット上でそれが可視化され、言葉を与えられるのは、ネットが無意識を漉しとる作用を持つからだろう。
表向きに(つまり社会的に)語り得る挫折経験の有無を問う、というのは、それ自体、「社会的に語り得る挫折」を要求するイニシエーションなわけで。先ほどの読書感想文の話に引きつけて言えば、これも「形式による道徳」なんだろう。
ここでも私はいつもと同じように、「ホンネとは、身に付いたタテマエであり、タテマエとは、付け焼刃的なホンネである」と言いたい。
「国語」でやるような、文章を書く訓練、というのは、思いを言葉にする訓練というよりも、言葉で思いを作り出す造形の訓練、みたいなところがある。「思い」が先にあるかどうかなんてことは実はどうでもいい。それっぽいこと、が書けるかどうかなのだ。
文章が書けるようになると、思い、もついてくるだろう。「身に付いた形」は「身」と見分けがつかなくなる。文章という「形」を造ることを通じて、「感想」が生まれてくるのではないだろうか。
そういう意味では、「文章を書かせる訓練」という、一見すると価値中立的な教育にも、道徳的色彩が付きまとう。「文章が書けない人」は思い抱いたものを言葉にする力がついていない、ということで訓練の対象にされる。しかし、結局、ありきたりの言葉でありきたりの「感想」を綴る訓練をさせられているに過ぎない。
読書感想文、なんて、どうあがいても面白いものになるはずがないし、すべての人が何らかの思いを持つと想定している時点で、「形式による道徳」なんだよ。書く、という行為によって、「感想」なるものを造り出させる道徳的教育。
やっぱ予備校の先生、って、研究者くずれが多いのか。「うちくる」での林修氏の話。
「この業界には挫折を経験している人が多い」というのは、「挫折を経験できた人が多い」ということなんだろうな。挫折を「挫折」として認識し、それを糧にして生きていくという意思があるからこそ、その場所にいることができるんでしょう。客観的な意味での挫折、なんてものはない。
挫折経験、みたいなものって、いろいろ種類があるけれど、そもそも「挫折」を「経験できない」人もたくさんいる。世渡りがうまい、とか、そういうことじゃなく。その人が「挫折」だと思わなければ、その人の人生における経験としての挫折は存在しないわけで。
目の前のことに夢中になる、という経験をしたことのない人にとっては挫折経験はないだろう。挫折、というのは「勢い」があってこその「挫折」なわけで、そもそも「のめり込む」という前段階を必要とする。ESとかで挫折経験の有無を問うのは、そういう理由からだろう。
けれど、もう一つ別の角度からの考察を加えると、「披瀝できる挫折」と「披瀝できない挫折」があると思う。社会的に価値づけられているのは前者で、後者はだいたい無意識のレベルに追いやられてしまう。これがいわゆる「黒歴史」なんだろう。
そういう黒歴史だって、昇華さえできれば成長の糧にはなる。けれど、黒歴史はそもそも他者に披瀝できる社会性を持たないから、社会的過程としての昇華は起こりにくい。そういう黒歴史的な体験の方が重みを持っている人にとっては、表向きの挫折経験なんて、実に潔癖で薄っぺらいものに見えることだろう。
「黒歴史」とは、個人が社会化されていく過程で、昇華される術を与えられないまま無意識の底に沈殿した、いわば、「社会的存在としての人間の残りカス」みたいなもんだと思う。ネット上でそれが可視化され、言葉を与えられるのは、ネットが無意識を漉しとる作用を持つからだろう。
表向きに(つまり社会的に)語り得る挫折経験の有無を問う、というのは、それ自体、「社会的に語り得る挫折」を要求するイニシエーションなわけで。先ほどの読書感想文の話に引きつけて言えば、これも「形式による道徳」なんだろう。
ここでも私はいつもと同じように、「ホンネとは、身に付いたタテマエであり、タテマエとは、付け焼刃的なホンネである」と言いたい。
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