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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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ネットをやっていると、「自分よりすごいやつ」にすぐ遭遇する。リアルの生活では「そこそこやれてる」と思う自分自身の漠然とした「自信」が打ち砕かれる経験をした人も多いのではないだろうか。



そういうことを思うとき、「自分に入ってくる情報を制限する」というアナログな処世術の意外な効力を発見するのです。つまり、意識的に「井の中の蛙」になる、ということ。



知ろうと思えばクリック一つで知ることができる世の中、というのは恐ろしいもので、人類史上、これほど多くの人が簡単に「自分の世界的な立ち位置」を把握できてしまうような時代は、かつてなかった。昔は「村の中のオラ」というものさしでよかったのが、今では「世界の中の私」というものさしになった。



でも、それは「ネット」という世界に常時身を浸していたら、という話。ネットサーフィンをたいしてやらない人にとっては、今でもある程度は、「狭い世界」の中だけで生きていけるような気もする。すると、自分の生活にとって、本当に必要な情報を仕入れる時以外は、ネットをいじらない、という倹約的な生き方も、現代的な意義を持ち得るんじゃかろうか、と思ったりする。



市場における商品、と同じように、あるいはそれのアナロジーとして、人間の「アイデンティティ」もまた、「情報交換」という人間同士の記号的相互作用の中で成り立っている。「あの人と比べて私は……」といったふうに、多かれ少なかれアイデンティティというものは記号的存在としての「他者」との関係の中で構築されるものだ。もっと言うと、アイデンティティの問題というのは「他者とは誰か」という問題である。



その他者を誰に措定するかによって、アイデンティティも変化する。どこでも同じように振舞う人がいないのは、人間の人格というものがそれだけコンテクスト依存的であるということでもあり、逆に言えば、人間の可塑性をも、示している。だからこそ多くの賢人は「付き合う人を選べ」と言うし、「場所が変われば人も変わる」というのだ。



「希望格差社会」という言葉が一時期流行った。後期資本主義社会においては、社会階層が固定化され、生まれによって、社会的上昇の可能性が決まってしまう。そこでは「希望」という抽象的な理念すら、すべての人に均質に保証されるものではなく、その人の社会階層いかんによって、持てる希望の大きさも重さも変わってしまう、というほどの意味だろう。



考えてみると、これも、「知ろうと思えば知ることができる」が故の悲劇ではなかろうか。「私より希望を持てる人がいる」ということを「知る」ことができてしまうが故に、その「他者」との相対的な不遇感に苦しむのである。



もちろん、これは一面的な見方に過ぎない。そのような「格差」が現に存在し、それが「社会階層」の固定化と結びついた現象である、ということもまた、真実であるように思う。しかし、そうした「希望の格差」は、そのような言説が「知られる」ことで、初めて意味を持つことも確かである。



今、世界中で起こっている政治的動乱の多くは、こうした「知識の自由化」という人類史上空前の知識社会学的変化と対応関係にあるように思う。これまで「発展途上国」とされてきた人々が「先進国」の利害について多くを知るようになり、自分たちの「相対的な不遇感」を徐々に認識するようになっていった結果、大衆的な動員が可能になったのだ。そしてこのことは、現代日本における「希望格差社会」の問題とも通底している。



今、世界中の多くの「恵まれない地域の人々」は「知ることの自由」を欲して戦っている。しかし我々日本人はむしろ、その「知ることの自由」の故に、苦しんでいるようなところがあるのではなかろうか。もっと言うと、今や私は、「知らないことの自由」の効用を認識しつつあるのである。



「知ることの自由」を極限まで拡大していく潮流を「情報自由主義」と仮に名付けるとすると、「知らないことの自由」を求める立場は「情報保護貿易主義」ということになるだろうか。言うまでもなく、経済政策とのアナロジーとして、記号の市場的性格を把握したものである。



ジョージ・オーウェルの「1984」には「二重思考」という概念が出てくるが、今まさに「情報自由主義」の中で溺れ死しようとしている人にとって救いとなる処世術は、「知っているけれども知らない」という認識のあり方、すなわち、情報社会における「二重思考」なのではないだろうか。私は私に都合の悪いことを知っていながら、知らない、という認識の仕方こそ、激しいアイデンティティ=記号の市場競争の中で自らの実存を保護する方法論ではないか。



記号的な意味における「競争」を降りる、というある意味「後ろ向き」な処世術がこれから見直されるに違いない、と私は思う。この問題は、例えば「生涯学習社会」や「オタク的生き方」を考える際にも関係してくるのだろうが、これはまたちがう機会に考察してみよう。
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