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- 01/07 「欲望の思想」の身体主義と、「身体の工学化」について
- 11/10 大学能楽サークルには「内向き」な人たちが集まることについての考察から、「不器用な人たち」の文化史まで
- 09/25 株主の共同相続と「準共有」
- 09/22 美容師さんと私
- 09/17 働き方改革と管理職
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修了証をもらってきた。
まあ、考えてみれば短い三年間だったと思う。タイトルの意味は文字通り、自分の今の心境を表している。
私にとってのこの三年間は私にとってしか意味がない、と思う。
だから、他人からそのことの意味を深く問い詰められても、満足に答えられる気がしない。道草、とはアイロニーではなく、率直な気分である。
私が「入院」したのはさしたる理由があったわけでもなく、ましてや「志」など皆無であったから、「道草」という表現は「自分にとっては」極めて適切な表現なのだ。
ある人から、「君にとっての三年間はなんであったのか」と聞かれたら、私としてはそう答えるしかない。しかしそれでは相手は満足してくれないだろうから、しかたなく、「志があるふり」をしている。
「学位」というものが神聖な何かであった時代に生きた祖父母は私の証書を見てえらく感動してくれた。それだけはよかったと思っている。もちろん、親孝行などした覚えなどない。
学問の世界で生きていくとかいかないとか、今の私にはどうでもよいと思えるのは、そんな家族の素朴な表情を見ることができたからかもしれない。もともとこの世界で食っていく気などさらさらなかったから、つまらないしがらみとプライドにつきまとわれるよりはよほどよかったのではないか。そのくらい、今の私は「軽い」。
では、あらためて、「長い道草」とは私にとってどんな意味があったのか。
それは端的に言えば、自分の「軸足」をひとつ、持つことができたことだと思う。物事を見る視点、つまりは「専門」と呼べるような何がしかの知識と作法を身に着けることは、学士の身分ではかなわなかっただろう。
自分の中に「テーマ」を複数持っておくことは大事だと、いつかI先生に言われたことがあるが、最近ようやくそのことの意味がおぼろげながらわかってきた気がする。何か一つのことを深く追及することは、広く浅く、「何でも屋」を気取るペダンティスムよりはるかに重要な知的態度であるように思われる。
「蛸壺」という表現は「専門性」についての極めて一面的な解釈に則っている。専門性すら持てないものが「蛸壺」を批判するにはあたらない。専門性とは「軸足」のことであり、軸足を持つからこそよりダイナミックに世界に参入できるのである。そしてその軸足を「複数」持つことが重要なのだろう。
専門性とは、対象となる事物に深く切り込むことで、「そのもの以上の」価値を見出す営為であると言える。事物そのもの、にとどまることはできない。そしてその「知的深み」こそが、真に意味ある知的生活を作り上げると言えるし、それについては私の見解は価値相対主義的ではないのだ。
なぜ「専門性」だけが真に意味ある知的生活を作り上げると言えるのだろうか。私も現時点では洗練された表現を用いてそのことの真意を述べることは難しいが、しいてたとえるなら、「彫刻」を彫り込む作業と似ているのではないか。
一つの彫刻が「作品」となるためには、巨木の表面を滑らかに削り取る作業だけではなく、大胆に深く彫り込む作業も所々で必要になる。そのような感覚で、人間というものもまた、当たり障りのない「一般教養」に甘んじずに、テーマ性を定めて、「深く彫り込む」作業があってこそ、芸術性を持った作品に仕上がるのではなかろうか。最初から「完成品」が見えているはずもないが、はじめから「きれいな」「でこぼこのない」形を目指しては、なにものにもならないだろう。
これをより主観に即した形で言い換えるなら、世界を見る目はできるだけ凸凹していたほうがいい、ということになる。人間の目玉のレンズには凹凸がついており、だからこそ物事の形を立体的に、ヴィヴィッドに把握することができるわけだが、それとのアナロジーで、知性というものもまた、所々とがっていたり、凸凹していたり、ある程度の凹凸がなければ、世界の色形をより明瞭な形で認識することはできないのではなかろうか。あんまり平らでツルツルだと、世界の認識そのものも平らでツルツルなものになってしまう。不定形でいびつな要素を自らの中にある程度認めることが、より「豊かな」現実の認識を可能にするように思われるのである。
そしてその「歪さ」は、複数抱えていたほうがいい。なぜなら、「たった一つの歪」は認識のゆがみや偏りをもたらすが、「複数の歪」は認識の「乱反射」をもたらし、世界の複数性と多様性を大いに認識することにつながるからだ。
「歪さ」は「矯正」によって「平ら」にされるものではなく、むしろ「歪さ」は別の「歪さ」を抱きかかえることによって自分自身をより豊かにしてくれるのではないか。ちょっと感覚的な話になってしまうが、今の私にはそのように思えるのである。
つまり、私にとってこの「道草」は、そのような「軸足」であり「歪さ」でもあるようなものを彫り込んだ期間であったということになるだろうか。少なくともそのような方向性をちょっとだけ、進めたことになるかと思う。
私は今後、この軸足、歪さをより彫り込みながら、またいくつかの軸足、歪さを抱きかかえていくだろう。そして私なりに、自分が生きるこの世界の「真理」を見極めていきたい。
まあ、考えてみれば短い三年間だったと思う。タイトルの意味は文字通り、自分の今の心境を表している。
私にとってのこの三年間は私にとってしか意味がない、と思う。
だから、他人からそのことの意味を深く問い詰められても、満足に答えられる気がしない。道草、とはアイロニーではなく、率直な気分である。
私が「入院」したのはさしたる理由があったわけでもなく、ましてや「志」など皆無であったから、「道草」という表現は「自分にとっては」極めて適切な表現なのだ。
ある人から、「君にとっての三年間はなんであったのか」と聞かれたら、私としてはそう答えるしかない。しかしそれでは相手は満足してくれないだろうから、しかたなく、「志があるふり」をしている。
「学位」というものが神聖な何かであった時代に生きた祖父母は私の証書を見てえらく感動してくれた。それだけはよかったと思っている。もちろん、親孝行などした覚えなどない。
学問の世界で生きていくとかいかないとか、今の私にはどうでもよいと思えるのは、そんな家族の素朴な表情を見ることができたからかもしれない。もともとこの世界で食っていく気などさらさらなかったから、つまらないしがらみとプライドにつきまとわれるよりはよほどよかったのではないか。そのくらい、今の私は「軽い」。
では、あらためて、「長い道草」とは私にとってどんな意味があったのか。
それは端的に言えば、自分の「軸足」をひとつ、持つことができたことだと思う。物事を見る視点、つまりは「専門」と呼べるような何がしかの知識と作法を身に着けることは、学士の身分ではかなわなかっただろう。
自分の中に「テーマ」を複数持っておくことは大事だと、いつかI先生に言われたことがあるが、最近ようやくそのことの意味がおぼろげながらわかってきた気がする。何か一つのことを深く追及することは、広く浅く、「何でも屋」を気取るペダンティスムよりはるかに重要な知的態度であるように思われる。
「蛸壺」という表現は「専門性」についての極めて一面的な解釈に則っている。専門性すら持てないものが「蛸壺」を批判するにはあたらない。専門性とは「軸足」のことであり、軸足を持つからこそよりダイナミックに世界に参入できるのである。そしてその軸足を「複数」持つことが重要なのだろう。
専門性とは、対象となる事物に深く切り込むことで、「そのもの以上の」価値を見出す営為であると言える。事物そのもの、にとどまることはできない。そしてその「知的深み」こそが、真に意味ある知的生活を作り上げると言えるし、それについては私の見解は価値相対主義的ではないのだ。
なぜ「専門性」だけが真に意味ある知的生活を作り上げると言えるのだろうか。私も現時点では洗練された表現を用いてそのことの真意を述べることは難しいが、しいてたとえるなら、「彫刻」を彫り込む作業と似ているのではないか。
一つの彫刻が「作品」となるためには、巨木の表面を滑らかに削り取る作業だけではなく、大胆に深く彫り込む作業も所々で必要になる。そのような感覚で、人間というものもまた、当たり障りのない「一般教養」に甘んじずに、テーマ性を定めて、「深く彫り込む」作業があってこそ、芸術性を持った作品に仕上がるのではなかろうか。最初から「完成品」が見えているはずもないが、はじめから「きれいな」「でこぼこのない」形を目指しては、なにものにもならないだろう。
これをより主観に即した形で言い換えるなら、世界を見る目はできるだけ凸凹していたほうがいい、ということになる。人間の目玉のレンズには凹凸がついており、だからこそ物事の形を立体的に、ヴィヴィッドに把握することができるわけだが、それとのアナロジーで、知性というものもまた、所々とがっていたり、凸凹していたり、ある程度の凹凸がなければ、世界の色形をより明瞭な形で認識することはできないのではなかろうか。あんまり平らでツルツルだと、世界の認識そのものも平らでツルツルなものになってしまう。不定形でいびつな要素を自らの中にある程度認めることが、より「豊かな」現実の認識を可能にするように思われるのである。
そしてその「歪さ」は、複数抱えていたほうがいい。なぜなら、「たった一つの歪」は認識のゆがみや偏りをもたらすが、「複数の歪」は認識の「乱反射」をもたらし、世界の複数性と多様性を大いに認識することにつながるからだ。
「歪さ」は「矯正」によって「平ら」にされるものではなく、むしろ「歪さ」は別の「歪さ」を抱きかかえることによって自分自身をより豊かにしてくれるのではないか。ちょっと感覚的な話になってしまうが、今の私にはそのように思えるのである。
つまり、私にとってこの「道草」は、そのような「軸足」であり「歪さ」でもあるようなものを彫り込んだ期間であったということになるだろうか。少なくともそのような方向性をちょっとだけ、進めたことになるかと思う。
私は今後、この軸足、歪さをより彫り込みながら、またいくつかの軸足、歪さを抱きかかえていくだろう。そして私なりに、自分が生きるこの世界の「真理」を見極めていきたい。
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