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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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能楽鑑賞、稽古だけが趣味です、というような人生にしたい。



正直、どらまてぃっくなんて求めてないわ。一つのことをダラダラと、ひたすら継続していく。時代とか社会とか、そんな大文字のものを気にかける生き方はしたくないもの。そんな生き方をするくらいなら滅びゆくものたちと共に沈んでしまったほうがいい。



部屋の片隅で古書を貪りながら陰気を振り撒いて梃子でも動かない愚鈍な人でいたいです。



死ぬまでにいろいろなものを見てみたい、という欲求が不思議と自分にはない。世界のどこに行っても所詮、見える景色に大した違いはないのだと思っているからかもしれない。よしもとばななの「TUGUMI」の主人公は、つぐみのことをそのように表現していたような気がする。病弱で狭い世界しか生きることができないが、世界中を旅して回った人よりも多くを知ることができる人。そういう人になるしかない。



この四畳半で見えるもの以外に何があるのか。首狩り族の村に行ってもたぶん、平凡な家族スケッチしか持ってこれないだろう。私にはフィールドワークは無理である。



私にとって旅をする、ということにどんな意味があるのだろう、と考えてしまうと何処へも行けなくなる。せめて謡跡百ヶ所くらいは網羅してもいいだろう、自己目的にするには丁度いい素材だ、と思い定めた。



何年か前、アイルランドに行った時、もうこれほど濃密な時間を旅において過ごすことはないだろう、と悟った。私にとってそこが目的地であるような旅はもうないのだ。根拠は特にない。



その代わり、自分の目が見えなくなる時までに(そういう時が来る、と仮定しての話だが)できる限りたくさんの本を読んでおきたい、とは思っている。音楽は聴けなくともいい。声さえ出せれば。しかし、目が見えない、となると字が書けなくなる、読めなくなる。自分自身の根幹にある「言葉」に対する感度を測るものが失われるのは非常につらい。だからその時が来るまでに、自分の中にできる限りの言葉を蓄えておきたい、という思いがある。



よく、自分の四肢や五感が徐々に喪失していく、という思考実験をする。自分が老いて、身体が欠損していくその刹那を夢見ている。禅の教義には、このような身体欠損の夢想があるようだが、自分の身体が十全でなくなる時を考慮するのは生きていく上で大変重要な心構えであるように思う。なぜならそこで「人間性」が試されるからだ。



私は最近、「老い」を意識することを心がけている。人は死ぬまでにまず老いる(そうじゃない人もいるが)。ある意味、「死」よりも恐ろしいものが「老い」なのである。なぜなら死は体験できないが、老いはその機会があれば確実に体験するものだから。死を想え(メメント・モリ)ではないのである。老いを想え。



こうして言葉を綴り、物事の道理について考えを巡らせることができるのも私が幾分か、正常な判断力と語彙力をまだ保っているからである(その判断の是非は問わないでほしい)。しかし、いつまでも明晰でいられるわけではない。明晰な判断と思考の膂力を失ってもなお、人間は人間であり続けるのか、あるいは何か別のものになっていくのか。私はそこに興味がある。



老いる。ぼんやりとしていく。それを前提とした哲学でなくて何が「思想」であろうか。私は身体の剛健さを前提とした「旅」も「哲学」も信用できない。弱きもの、汚いもの、醜いもの、鈍いもの、ぼんやりとしたもの、が吐き出す言葉と美学。人間が辿り着く場所は結局そこしかあり得ない。



だから私は、若さを信じない。健康を信じない。身体を信じない。旅を信じない。哲学を信じない。
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