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- 01/07 「欲望の思想」の身体主義と、「身体の工学化」について
- 11/10 大学能楽サークルには「内向き」な人たちが集まることについての考察から、「不器用な人たち」の文化史まで
- 09/25 株主の共同相続と「準共有」
- 09/22 美容師さんと私
- 09/17 働き方改革と管理職
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一言で言えば、タナトスの世界。
見えない場所、泥のような昏い部分に対する愛着、そういう人間の澱が沈殿していき、異形の存在が造り出されていく。
人形のように空虚な彼らの魂は、光の世界に住まう「主人」に従属していながら、いつしか、その主人さえも、脅かす存在になっていく。
これを現代の階級社会の見立てとして見ることもできる。けれども、私はもっと普遍的な人間の意識の「疚しさ」を描いた作品ではないかと思っている。
誰かに嫉妬する、その嫉妬がその存在を輝かしいものにする。その輝きは影を伴い、いつしかその影に飲み込まれる。欲望する者は欲望される者に、見る者は見られる者に支配されているようでいて、実は支配している。召使は主人の生活の不始末と不潔な部分を一手に引き受け、その主人の身体と出生の秘密を知る。マリオネットは操られているようでいて、糸を通じてその主人の人格を脅かす。
そのような死の欲動(タナトス)の世界が、「栄光の世界」より本質的であると、作品冒頭に掲げられたヘンリー・ジェイムズのエピグラフは語っているようでもある。
もう一つのモチーフは、閉じられた世界の美しさ、であろうか。
18世紀に造られた修道院で暮らす老婆と異形の者たちの世界は、彼らの孤独の城であり、内的充足である。
健全な世界に住まう人たちなら、この人為的な楽園を禁忌として退けるに違いない。
ユルスナールの短編に、虚偽の世界で育ち、長ずるに及んで真実の世界を知って絶望した皇帝の話が出てくるが、そのような悲惨さは本書にはない。
何故なら、それは虚偽の世界ではないからである。
これは紛れもない、真実の世界の話であり、ただ、その裏と表があるだけ。
昏い作品だが、美しい物語である。