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結婚すると、自分の家族との付き合い方も変わる。
今まで知らなかった一面を見る機会が増え、新鮮に感じると同時に、少し切なさもある。
人間とは、人と人の関係性の中に本質があるのだな、と改めて感じさせられる。
これまで家族の中では決して話題になることもなかった、半ばタブー視されていたような話題も出るようになり、いい意味で、新しい関係性が生まれている。いわば、結婚の効用か。しかしまだまだ変化してゆくのだろう。
家族のことについて、私は殆ど何も知らないのだなあ、と気づく機会が増える。家族が増えたことで、自分の家族についての理解が深まっていく。こういうことはありきたりの経験なのだろうか。他人の家族についてはあまり関心がないので、それは知らない。
母について、私が知っている母とは少し違う一面が、相方も交えた三者会談の中で明らかになったりする。逆に言えば、母も私についてはそれなりに知っていても、私と他人との関係性の上でしか明らかにならないこともあるのだろう、と思われる。
誰かを理解する、というのは1対1では難しい。知りたいと思うその人が、自分に対してホンネで向き合っているとは限らないし、仲がいい同士でも、その人にしか向けない側面というものを誰しも持っている。友人関係でもそれは同じだろう。よく、三角関係が拗れやすいのは、3人が3人ともいつも同じ面を見せているとは限らないからである。AさんとBさんとCさんがいて、AさんはBさんにしか見せない部分があり、BさんはCさんにしか見せない部分がある。それに段々と気づいてくると、3人のバランス感覚が崩れてくるのである。
家族関係についても同様で、その家に新しい人が入ってきて初めて明らかになる家族の側面、というものがあるらしい。そしてそれは、上手くいけば家族関係に新陳代謝を齎してくれるものでもあるのだろう。変化したバランスを取ることに失敗すると、嫁姑や兄弟同士の争いごとなどが生じてくるに違いない。
歳を取るだけでは、家族間の人間関係というものはそれほど大きく変わらないのかもしれない。むしろ、外部から新たな構成員を迎え入れることで、そこに変化が生じてくるものらしい。以前は漠然としていたのに、「家」というものを意識させられるようになる。
家、なんてものは、婚姻関係を通じてしか具体化しないのかもしれない。それまでは空気のようなものだが、結婚によって他者を迎え入れることを通じて、初めてそれが具体的なものとして意識されるようになる。そして、家族というものがどういうものなのかを知るのは、その時になってからなのかもしれない。
結婚をしないと家族が生じない、とは思わないが(所詮は婚姻関係は「制度」なのだし)、誰かを家族として迎え入れる、というのは決定的な機縁であるように思える。少なくとも、私の母について言えば、私が結婚したことで改めて「母」として、母を意識するようになったと思う。
母の自己犠牲的な性格はよくわかっているつもりだったけれども、その深いところの意味について、改めて思うところがある。世間的な意味での「親孝行」というものを私自身が信じてこれなかった理由も、今ならよくわかる。私は母に対して孝行をすることで、自分の生活の一部でも切り取ることを母がよく思わないことを胸の内でわかっていたからこそ、その自己犠牲的な響きを信じることができなかったのだ。母はそういう人なのだ。だから私はナルシストになるべくしてなっている。私が自由でなかったら、母も自由になれない。だから私には、自由でいる義務さえあるのかもしれない。
そういうことは、自分が親に何かを与えることを親孝行だとする向きには理解不可能な、というより親不孝者に限りなく近いのかもしれないが、私にとっては自然なことである。けれども、それがすべてだとも思えない。新しい家族が増えたことで、私なりのやり方以外の仕方で「孝行」しても、案外いいのかもしれないと思うようになったことも事実である。これは「感化」と呼べないこともない。
感化されてゆく部分と、変わらない部分と、両方が混じり合ってより複雑な色合いになっていけばいいと思う。私の生活には矛盾がいる。矛盾と葛藤こそ愛すべきものである。
今まで知らなかった一面を見る機会が増え、新鮮に感じると同時に、少し切なさもある。
人間とは、人と人の関係性の中に本質があるのだな、と改めて感じさせられる。
これまで家族の中では決して話題になることもなかった、半ばタブー視されていたような話題も出るようになり、いい意味で、新しい関係性が生まれている。いわば、結婚の効用か。しかしまだまだ変化してゆくのだろう。
家族のことについて、私は殆ど何も知らないのだなあ、と気づく機会が増える。家族が増えたことで、自分の家族についての理解が深まっていく。こういうことはありきたりの経験なのだろうか。他人の家族についてはあまり関心がないので、それは知らない。
母について、私が知っている母とは少し違う一面が、相方も交えた三者会談の中で明らかになったりする。逆に言えば、母も私についてはそれなりに知っていても、私と他人との関係性の上でしか明らかにならないこともあるのだろう、と思われる。
誰かを理解する、というのは1対1では難しい。知りたいと思うその人が、自分に対してホンネで向き合っているとは限らないし、仲がいい同士でも、その人にしか向けない側面というものを誰しも持っている。友人関係でもそれは同じだろう。よく、三角関係が拗れやすいのは、3人が3人ともいつも同じ面を見せているとは限らないからである。AさんとBさんとCさんがいて、AさんはBさんにしか見せない部分があり、BさんはCさんにしか見せない部分がある。それに段々と気づいてくると、3人のバランス感覚が崩れてくるのである。
家族関係についても同様で、その家に新しい人が入ってきて初めて明らかになる家族の側面、というものがあるらしい。そしてそれは、上手くいけば家族関係に新陳代謝を齎してくれるものでもあるのだろう。変化したバランスを取ることに失敗すると、嫁姑や兄弟同士の争いごとなどが生じてくるに違いない。
歳を取るだけでは、家族間の人間関係というものはそれほど大きく変わらないのかもしれない。むしろ、外部から新たな構成員を迎え入れることで、そこに変化が生じてくるものらしい。以前は漠然としていたのに、「家」というものを意識させられるようになる。
家、なんてものは、婚姻関係を通じてしか具体化しないのかもしれない。それまでは空気のようなものだが、結婚によって他者を迎え入れることを通じて、初めてそれが具体的なものとして意識されるようになる。そして、家族というものがどういうものなのかを知るのは、その時になってからなのかもしれない。
結婚をしないと家族が生じない、とは思わないが(所詮は婚姻関係は「制度」なのだし)、誰かを家族として迎え入れる、というのは決定的な機縁であるように思える。少なくとも、私の母について言えば、私が結婚したことで改めて「母」として、母を意識するようになったと思う。
母の自己犠牲的な性格はよくわかっているつもりだったけれども、その深いところの意味について、改めて思うところがある。世間的な意味での「親孝行」というものを私自身が信じてこれなかった理由も、今ならよくわかる。私は母に対して孝行をすることで、自分の生活の一部でも切り取ることを母がよく思わないことを胸の内でわかっていたからこそ、その自己犠牲的な響きを信じることができなかったのだ。母はそういう人なのだ。だから私はナルシストになるべくしてなっている。私が自由でなかったら、母も自由になれない。だから私には、自由でいる義務さえあるのかもしれない。
そういうことは、自分が親に何かを与えることを親孝行だとする向きには理解不可能な、というより親不孝者に限りなく近いのかもしれないが、私にとっては自然なことである。けれども、それがすべてだとも思えない。新しい家族が増えたことで、私なりのやり方以外の仕方で「孝行」しても、案外いいのかもしれないと思うようになったことも事実である。これは「感化」と呼べないこともない。
感化されてゆく部分と、変わらない部分と、両方が混じり合ってより複雑な色合いになっていけばいいと思う。私の生活には矛盾がいる。矛盾と葛藤こそ愛すべきものである。
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