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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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本一冊あれば時間をつぶせる人は幸福だと、人はいう。
あえて言おう。それは欺瞞だと。




読書とか座学って、精神的なおしゃぶりだと思うんですよね。旨いもん食わなくても、楽しい玩具がなくても、お金を使わなくても、目の前のおしゃぶりを只管しゃぶっていればいくらでも時間をつぶせる、という意味で。




おしゃぶりで満足できるから、退行するんだわ。退行しながら、歳を取るのだと思う。精神的な豊かさ、という貧しさを身に纏っていく。




精神的な豊かさとは何か。そんなものはおしゃぶりの味がするだけではないか、と思うことがある。口の中に入れたまま何度も噛み締めているうちに、甘露を嘗めているような気分になる。咀嚼し、消化する営みの、無限の先送りが、精神的おしゃぶりなのではないか。




おしゃぶりとは、咀嚼し消化する営みの無限の遅延である。味わうことの持続性とは、消化することの拒否に他ならないから。おしゃぶりが退行現象とされるのはこの生命に対する拙い抗いの故なのではないか。




おしゃぶりの精神性とは人為的であることを免れない。我々がおしゃぶりをする時、それは消化という自然に抗い、つかの間の味わいを持続させようという人為的な、ある意味で涜神的な試みをしていることになるのだろう。




そのような涜神的な営みを称揚すべきではないのだ。私のようなモラリストは、精神的な豊かさなるものを恰もイノセンスのように祀り上げることに耐えられない。なんて不徳な輩だろうか。




「精神的な豊かさ」というのは貨幣経済に取り込まれているんですよね。市場で流通しているからこそ、豊かさという指標を精神に結びつけるんです。自らは市場の外にあると僭称しながら、その実、市場から自由ではない、むしろ精神の自由を貨幣価値に置き換える働きに手を貸してしまっている言説。




おしゃぶりの崇高さ、とは奇妙なものだ。その時間が崇高であるという価値意識のうちには、飲みこみ、消化することへの嫌悪が含まれているのだが、飲みこみ、消化することを予定しない、味わいなどというものがあるだろうか。だからこそ、論理的におしゃぶりは「遅延」でしかあり得ない。




その論理的に遅延でしかあり得ないおしゃぶりを我々は崇高な営みと見做している。これこそ欺瞞だと思う。




本一冊あれば時間がつぶせることは幸福、というのは欺瞞だ、というのはそういう意味です。
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前にも言ったかもしれないが、役人というのは基本的に素人集団である。専門分野に特化した人というのはいない、ということになっているし、そういうシステムで回っている。




なぜ人は「専門知」を求めるのだろう、と考える時、それは他の誰でもない、あの人、この人の役に立ちたい、という思いがあるからだろう。要するに「オーダーメイド」である。オーダーメイドができる人のことを「専門家」というのではないだろうか。だとしたら役人ほどその定義から遠いものはないのだ。




行政マンに求められる「プロ意識」ってなんだろうな、ってたぶん永遠の問いじゃないだろうか。どこまで行っても妥協しかあり得ない、という意味において。もし「プロ」になりたいのなら役人になるべきではない、と口をすっぱくして言っておく。




「上から物申す素人」というのは気に食わないだろう。官僚組織に対する嫌悪感の正体はだいたいこんなところにある。役人生活というのは基本的に妥協の連続であるし、妥協と冗長と段取り臭さに耐えられる人だけがこの世界に向いていると言える。




役人の世界では「専門家」になればなるほど出世コースから外れていくわけです。そして出世を諦めるとどうなるかというと、みんな変人になっていくんですね。悪い意味でオタク化してしまう。




言い方を変えると、「専門は外注できる」んですよね。手前で専門家を養成しようという意志がないのは、元来お役所というのは専門知を外部に求めることで目の前のニーズを満たしてきたから、ということも言えるのだろうし、そこには専門性に対する「軽蔑」も入り混じっているのではないか。




専門知に対するある種の軽蔑は、同じ職務に長く就かせないという慣業と密接に関係しているのだろう。同じ部署にずっといて「専門化」していく職員を同僚は軽蔑する。それが専門知そのものに対するそれへと転化してくのだろう。




専門家はオーダーメイドに傾きやすい。知識がある故にオーダーメイドな期待に応えてしまいたくなるのが人間の心情というもの。しかしそれは公平・公正の理念と鋭く緊張を孕む。そこに危うさと卑俗さを重ね合わせる時、それが軽蔑へと繋がる。役人が専門知を期待された時に起こす生理的反応の起源。




もっといえば、知識の相対的な量と質がプロと素人を分かつのではない。専門性に向き合う態度がそれを分かつのだと言える。このことの重大な意味が、多くの人にあまり意識されていないと感じる。




あらゆるものが外注できる時代に、外注するという態度の根幹にある専門性に対する期待と無知を炙りだすのは、素人の役割なんじゃないかと、最近思うようになってきました。




私は現場ですごく脱構築的な試行錯誤をしてるんだと思う。たぶん。
私のうちも中流下層より下くらいだと思うけども、持ち家に住んでるとあまりそういう実感湧かないね。都会の喧騒から離れてると余計に。ご飯にもお金使えるし。




親子二世代が同じ持ち家に住んでいて、うちの親は家から徒歩30秒の場所にある会社に通っていた。そういう環境は都会にはない。私ははじめて地元を離れた世代なのだけど、うちの人はよく、都会はあらゆる面で恵まれている場所だと言っていた。そういう実感は、今の私にはない。




私はよく、うちがお金持ちなのだと誤解されるのだけど、むしろビンボーですよ。そういう人たちと比べたらね。でも綺麗な持ち家に住んでいる。海とお城があるいい街に住んでいる。親は6時までには家に帰ってくる。それは平凡なことであり、素晴らしい環境だったのだろうね。




ビンボーな母子家庭に育って大学院まで行き国家公務員になる人は全体のどれほどの割合か知らないが、例外的であることは確かだろう。私が知る限り、同様の境遇で私以上の学歴に達した人はいない。だから私はビンボーな家に育ったけども極めて例外的な処遇にいることは認めざるを得ないが。




貧しさ、って、そんなに単純なものでもない。




ただし、母も私も勉強はできる方だった。親子二代に渡って学年一位をとっていたことについては母の友人間でも周知だった。かといって母に出世欲はそれほどなかったし、私にもあまりない。




私の祖父は戦前の都市ブルジョワジーの家庭に育ったから、その辺の文化遺伝子は引きずってるのよね、たぶん。ただ、戦争とともにもうどうでもよくなってしまったのだろう。すべてが零に回帰した、それだけなのだろう。




何かに向かって一生懸命にがんばる、ってタイプじゃないからな、私は。ゆるーく、ふわふわー、と生きていければそれでいいや、と。うちの人、全員に言えることだけれど、基本的に人を出し抜いて何かを成し遂げようという意思がない。それがうちらしいのかな、と思うくらいには冷めている。




オトコ独特の「野心」っていうの?そういうものが皆無な家庭だったので、未だにそういうパッションは苦手ですね。というか、オヤジという存在が苦手。大黒柱、そんなものはうちにはなかった。




ただし女性的なものに対して過剰に同化していたわけではなく、冒険的な要素を身にまとうことが自分の性的魅力を高めることも知っていた。だからそれなりにモテた。けれど私はどこまでも「パッション」というものがない、それだけは模倣できないものだと感じる。オヤジ的なものの欠如。





子供にはみんな生物学的な親がいるけど子供には子をつくる蓋然性がない、だから当たり前に存在する親という概念と自分自身が親になることの可能性の格差に畏れをなす、ということは、結局は宇宙の起源の問題に収斂される。




ワレオモウ、ユエニ、ワレアリ、が哲学の起源たり得るのは、親という存在と私という存在の間にある可能性の格差に畏れ戦くからじゃないのか。




エゴイストは常に具体物を志向する。ロマンチストは常に抽象物を志向する。故にロマンチストのほうが罪深い。なぜなら抽象的なものは一般的なものでしかあり得ず、一般的なものは相対的にしか存在し得ないからだ。一般的な幸福は相対的な不幸を必要とせざるを得ない。




権利の上に眠る者は保護に値しない、という理念の究極の根拠は、権利というものが目に見えず、定かでないからではないかと思うことがある。しかし見える権利なんて不安で仕方がないだろう。見えてしまえば、もうそれ以上はないのだから。




法的思考の結論のみが見える知識として流布しても、それで人類が幸福になるとは思えない。けれど民主主義のテクノロジーはそれを追求し続けるだろう。解釈という営みが絶えず脱聖化されていくプロセスが快楽になる仕組みこそ、我々が得るものだろう。




デカルトが言い出したことを私なりに解釈すると、私の親は結婚して子供を産んだのに、なんで私はいつまでも童貞なのか、ってことだと思えてくる。




そういうことを表現するために、ワレオモウ、なんて無意味なことを言わなければならなかった。私には親がいて当然でも、私に子供がないのはなんら不思議なことではない、という事実を解釈するために機械の話をしなければならなかった。本来は時間と可能性の話をすべきだった。




そういう男のエピソードが近代哲学の起源になったのは人類の不幸だったかもしれないけれども、哲学の起源に非リアの悲愴さが現れることで非リアという存在形式を幾分か、形而上学的な次元に引き上げることにはなったと思う。




見方を変えるならば、少子高齢化時代における人類の「個」と「種」の有り様はデカルトの悲愴さに色付けられていると言える。




起源に関する議論はいつもうやむやにされる、また、されなければならない。だから私はこの悲愴さを肯定できる。人権の話をするならば、まずデカルトの恥部に畏敬の念を捧げることから始めよう。





彼氏いそうな若い女の子や専業主婦のお姉さんが難しいのは、彼女たちにいかにして「主体的に考えて、動いてもらう」ことを伝えることができるだろうか、という問題に直面するから。



平日の昼間に役所で相手する人々というのは往々にしてこういう方々なわけですけども、役所というのは良くも悪くも誰かに動いてもらわねば物が進まない組織なので、一番そういうことが苦手な人々にそういうことをお願いしなければならないという難しさがあると思うんですよね。



この前もこんなこと書いたけど、家族連れでファミレスに入ると必ずと言っていいほどウェイターに注文する役割はお父さんに割り振られますね。他人に物申す時もお父さんが前に出てきます。で、そういう「お父さん」不在の場面で彼女たちが自分たちの問題に対してどこまで主体的になれるのか。



「休日の男」と「平日昼間の女」という問題は好対照を示していて根深いものがある。人間の美学は容易に変更不可能だから「何が正義か」という問題以前の話でもある。意識の持ちよう、って本当に見えないところで法社会の在り方を規定していると感じる。



『終物語』で忍野扇が言う決め台詞、「私は何も知りませんよ、あなたが知っているんです」という態度は民事行政の体質としてあると思う。というか、それがすべてだとも言える。これはこの前の話でも指摘した通り。これが一番「平日昼間の女」に伝わりにくいことの本質。



「マイナンバー」に対してはそういう意味で、主体的に動く、ことの面倒くささから逃れられることを期待する向きもあるのだろうと思う。国民総背番号だろうがなんだろうが、「私は何も知りませんよ、あなたが知っているんです」と言われるよりはマシだろうと。



けれども、この「主体性の呪縛」からは簡単に逃れられないと思います。番号が振られればそれを今度は「自分で管理」しなければならなくなりますし、そもそも情報公開と保護に関する諸法令も「自分の情報を自分でコントロールする」ことも私人の「権利」に含めている。



徴税権力や警察権力のように自ら進んで動く行政体にとってはこうした管理技術は効率化に資するところがあるのかもしれない。しかし、自分のことは自分でなんとかしなければいけない、という要素の強い領域ではかえってマイナンバーを自ら管理することの負担感がより強く感じられるのではないか。




……みたいなことを考えていくと、ちょっとこれはもう少しじっくり観察しつつ、考察を深めていきたいテーマであるように思えてくる。「情報管理技術と『主体的市民』の間の相克――マイナンバー制度を通して見る民事行政の性格と限界」みたいな。



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