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刑事はさ、たとえば刑事ドラマやミステリー小説なんかで「真実を探求する」ってイメージがよくも悪くも刷り込まれてるじゃない。誰かがなんとかしてくれる世界、なんだよね。刑事さんや探偵が問題を解決してくれる世界。
民事法制の根幹にあって、日本人にとって一番体得しにくいものが「契約」という観念なんだよ。経済学的には合理的で自立した対等な個人同士がうんたらかんたら、ってやつだよ。誰も何もしてくれない世界、つまり、手前でなんとかする世界。
なんで自立した対等な個人なんてものが存在し得るのか、といえば、信念という「神様」がいるからなんだよ。契約というのは神様に誓うことだ。一人孤独に胸の内の神様に語りかける人だけが契約をなせる。これが難しい。
そういう意味で契約論に着目した内田先生のセンスは正しい方向を向いていたのだと思う。
「売買」と「贈与」の違いなんて、当事者以外に誰が「真実」を判断できるのだ?神に誓った者同士が売買をしたのだと宣誓した時、神ならぬ人はどう判断する?要はそういう世界である。
これって、要するに、「自分に自信がない人を救える人はいない」ということなんだよな。自分自身が何をしたのかもわからない人の「真実」は神のみぞ知る処、なので。
けれどもね、半分認知症患ってるような人の「自信」ほどあてにならないものもない、というのは誰にでもわかる。しかしそもそも神に誓う習慣のない人々が何に真実を委ねるかというと、それは「お上」だったり「世間」だったりする。
「世間」ならともかく、「お上」に委ねられても困るわけです。お上としては、いや、真実は上から降ってくるものじゃなく、貴方の胸の内にあるのですよ、と言うしかないわけで。だから民事法秩序というのは近くて遠いものだなあ、と日々感じるわけです。
ある人がブログで書いていたことなのだけど、役所の仕事の仕方として、プロセスが重視される、というのがある。結果さえ出せればプロセスはどうでもいい、という人は役人には向かないのだと。そのために、時には迂遠とも思えるような手続きを踏んで事に当たることを厭わない精神が必要だとされる。
それで思ったのだけれど、「粛々と進める」という表現は官僚的で上から目線の感じがすると最近は言われるらしいが、この「粛々と」という表現は殊に役所の仕事のスタイルの形容としてしっくりとくるものがある(表現の適当さ・適切さはこの際置いておくとして)。これは要するに、何がどうあってもプロセスに従って事に当たっていきますよ、という意思表示なのだろう。そういう意味では「融通の利かなさ」の形容として典型的である。
一方で、何がどうあっても前に進んでいく、という不退の精神を示す表現としても読み取ることができ、そういう意味ではある種の「膂力」を形容してもいる。どんな天変地異に苛まれても「粛々と」手続きを進めていく、という意思表示は時に「信頼」の表現ともなる。
もっと別の側面では、粛々と物事を進めていくのだ、という表現は職員が自らを鼓舞する時にも使われたりする。粛々と進めていく、とは、「間違いのないように」しかし「滞らないように」という自己啓発であり注意喚起である。間違ってはいけないし、遅滞してもいけない。そういう啓発の表現として「粛々と」は使われる。
広辞苑を引くと、「粛々」とは、①慎む(謹む)さま②静かにひっそりとしたさま③引き締まったさま④厳かなさま、と四つの意義が出てくる。粛々と進める、とは、ことを荒げずに、着実に、襟を正して進める、というような意味だろう。ここには「音声」の表現はない。いづれの意味内容も「静けさ」を基調としたものである。そして「上から目線」という現代的感覚とは正反対の、謹厳実直を旨とする価値意識が①の「慎み(謹み)」として表れていることにも注目したい。粛々と、はそのような多面的な役人心性の表現として、独特なものがあると思った次第でした。
最初はぼちぼちいろいろなことを覚えていけたらいいなと思います。
まずは法律の勉強ですね。一応、試験勉強で基礎的なことはやったのですが、使えるレベルのものにするためにはこれから習練が必要です。
それから、修士論文のテーマをより掘り下げていくこと。これはまあ、一応長い時間をかけて手広く勉強しながらやっていけたらいいなと思う。どのみち焦る必要はないので、えっちらおっちらやっていく。とは言え、修論で扱ったことをそのまま引きずることはしない。今、大まかにいくつかテーマを見据えている。
① 20世紀初頭における「社会科学」の発展
② 19世紀から20世紀にかけての「言語」に関する思想、学問の展開について
③ アイルランドにおける文化ナショナリズムとアカデミズムの関係について
以上のテーマは一応、内的に関連を有しているけれども、基本的には、それぞれ別個の問題として頭の片隅で考え続けていきたい問いなのである。その際、修士課程では十分に勉強できなかった日本との関係をも視野に入れながら、しばらく考えたい。
こうしたテーマを自分なりに設定するのにはそれなりに理由があるのだけど、それはまた別の機会にメモでも残しておこうと思う。指針なく漠然と読書するのではなく、一定の問題意識を常に頭の片隅に置いていたほうが何かと生産的だと思われる。
まあ、考えてみれば短い三年間だったと思う。タイトルの意味は文字通り、自分の今の心境を表している。
私にとってのこの三年間は私にとってしか意味がない、と思う。
だから、他人からそのことの意味を深く問い詰められても、満足に答えられる気がしない。道草、とはアイロニーではなく、率直な気分である。
私が「入院」したのはさしたる理由があったわけでもなく、ましてや「志」など皆無であったから、「道草」という表現は「自分にとっては」極めて適切な表現なのだ。
ある人から、「君にとっての三年間はなんであったのか」と聞かれたら、私としてはそう答えるしかない。しかしそれでは相手は満足してくれないだろうから、しかたなく、「志があるふり」をしている。
「学位」というものが神聖な何かであった時代に生きた祖父母は私の証書を見てえらく感動してくれた。それだけはよかったと思っている。もちろん、親孝行などした覚えなどない。
学問の世界で生きていくとかいかないとか、今の私にはどうでもよいと思えるのは、そんな家族の素朴な表情を見ることができたからかもしれない。もともとこの世界で食っていく気などさらさらなかったから、つまらないしがらみとプライドにつきまとわれるよりはよほどよかったのではないか。そのくらい、今の私は「軽い」。
では、あらためて、「長い道草」とは私にとってどんな意味があったのか。
それは端的に言えば、自分の「軸足」をひとつ、持つことができたことだと思う。物事を見る視点、つまりは「専門」と呼べるような何がしかの知識と作法を身に着けることは、学士の身分ではかなわなかっただろう。
自分の中に「テーマ」を複数持っておくことは大事だと、いつかI先生に言われたことがあるが、最近ようやくそのことの意味がおぼろげながらわかってきた気がする。何か一つのことを深く追及することは、広く浅く、「何でも屋」を気取るペダンティスムよりはるかに重要な知的態度であるように思われる。
「蛸壺」という表現は「専門性」についての極めて一面的な解釈に則っている。専門性すら持てないものが「蛸壺」を批判するにはあたらない。専門性とは「軸足」のことであり、軸足を持つからこそよりダイナミックに世界に参入できるのである。そしてその軸足を「複数」持つことが重要なのだろう。
専門性とは、対象となる事物に深く切り込むことで、「そのもの以上の」価値を見出す営為であると言える。事物そのもの、にとどまることはできない。そしてその「知的深み」こそが、真に意味ある知的生活を作り上げると言えるし、それについては私の見解は価値相対主義的ではないのだ。
なぜ「専門性」だけが真に意味ある知的生活を作り上げると言えるのだろうか。私も現時点では洗練された表現を用いてそのことの真意を述べることは難しいが、しいてたとえるなら、「彫刻」を彫り込む作業と似ているのではないか。
一つの彫刻が「作品」となるためには、巨木の表面を滑らかに削り取る作業だけではなく、大胆に深く彫り込む作業も所々で必要になる。そのような感覚で、人間というものもまた、当たり障りのない「一般教養」に甘んじずに、テーマ性を定めて、「深く彫り込む」作業があってこそ、芸術性を持った作品に仕上がるのではなかろうか。最初から「完成品」が見えているはずもないが、はじめから「きれいな」「でこぼこのない」形を目指しては、なにものにもならないだろう。
これをより主観に即した形で言い換えるなら、世界を見る目はできるだけ凸凹していたほうがいい、ということになる。人間の目玉のレンズには凹凸がついており、だからこそ物事の形を立体的に、ヴィヴィッドに把握することができるわけだが、それとのアナロジーで、知性というものもまた、所々とがっていたり、凸凹していたり、ある程度の凹凸がなければ、世界の色形をより明瞭な形で認識することはできないのではなかろうか。あんまり平らでツルツルだと、世界の認識そのものも平らでツルツルなものになってしまう。不定形でいびつな要素を自らの中にある程度認めることが、より「豊かな」現実の認識を可能にするように思われるのである。
そしてその「歪さ」は、複数抱えていたほうがいい。なぜなら、「たった一つの歪」は認識のゆがみや偏りをもたらすが、「複数の歪」は認識の「乱反射」をもたらし、世界の複数性と多様性を大いに認識することにつながるからだ。
「歪さ」は「矯正」によって「平ら」にされるものではなく、むしろ「歪さ」は別の「歪さ」を抱きかかえることによって自分自身をより豊かにしてくれるのではないか。ちょっと感覚的な話になってしまうが、今の私にはそのように思えるのである。
つまり、私にとってこの「道草」は、そのような「軸足」であり「歪さ」でもあるようなものを彫り込んだ期間であったということになるだろうか。少なくともそのような方向性をちょっとだけ、進めたことになるかと思う。
私は今後、この軸足、歪さをより彫り込みながら、またいくつかの軸足、歪さを抱きかかえていくだろう。そして私なりに、自分が生きるこの世界の「真理」を見極めていきたい。