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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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うちの母親は猫はかわいいけども兎はかわいいと思わない、という。僕も基本的には同意見である。生きた兎ほど薄気味悪いものはない。



目が横についているし、常にかっと見開いている。身体はなんだかごわごわしているし、何より落ち着きがない。数える単位が「匹」ではなく「羽」というのも異様である。あらゆる点から見てかわいくはない。



ハムスターなんかはちょっとかわいいかもしれない。しかしどうもあの落ち着きのなさが不安になる。鳥にせよ、なんにせよ、あんまりそわそわしている動物はかわいくないのではないか。



かわいい動物、って、そんなにいないと思うのよ。実は。みんな、かわいいと思ってるだけなんだよ。この動物はかわいい、という固定観念を脇に置けば大概の動物は不気味だよ。




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歳をとるにつれて、「それなりの恰好」をしなければならない、という社会的圧力は強まる。女性のほうがおそらくこの圧力を強く受けるのだろうが、男性に対しても無視できない力を発揮する。この圧力が男をおっさんにし、女をおばさんにしてゆくのである。



歳に応じた格好をしようと思うと出費は増える。身だしなみに対して支払うだけの収入を得ていかなければ甲斐性のある男にはなれない。年功賃金とは甲斐性を保つためのシステムでもある。男性が正統的な「おっさん」に洗練されてゆくための地盤でもある。



自分の個人的ファッション感覚、というのは大事にしていきたいですよ。もちろん。しかし、それだけだと自分の立ち位置がどんどん狭められていく感覚に対抗しつづけていかなければならない。それってけっこう疲れますよ。私は私、って自分に言い続けるのって疲れるでしょ。



僕は疲れるのが嫌なんです。自分が本当に精力を注ぎたい場面以外で疲れるなんて不毛な疲労でしかない。社会的な同調圧力、というものが仮にあるとして、僕はそういうものにあえて逆らおうという気力がわかないんですよ。そんなつまらないことにエネルギーを使いたくない、と思ってしまう。



つまりそれは、僕はあえて同調圧力なるものに対して抵抗しなければ社会的にそれなりの位置づけを与えられる、という恵まれた、つまらない身分である、ことを公言していることになるわけだが、そのことについては僕なりに考える所はあって(その話はまた今度にしましよう)。
美人に出会うと、憧憬というよりむしろ嫉妬を感じる。単純に一目ぼれする、ということが考えられない。自分の場合、相手のことを好きだと思う気持ちと嫉妬の気持ちとが同居しないと付き合うことができないらしい。相手に接近しつつ、同時に突き放すわけだから、相手としては意味がわからないのは当然。



猫に話しかけるのをためらう、というのもそういう特性からきているのかもしれない。猫を「かわいい」と思うと同時に、かわいい猫に対して嫉妬しているのだ。だからあからさまにかわいいと声をかけることを躊躇する。お前なんぞかわいくもなんともない、と突き放しつつ、愛でるのである。



しかしこの場合、本当に嫉妬なのだろうか。相手に自意識を持たせたくない、という思いは。これはむしろ「私の」自意識だろう。自分の自意識を守りつつ相手を好きになることはとても難しい。私にとってそれは不可能に近い。



美人を好きになる、ことが許しがたい。なぜ自分よりも美しい人間に対して欲情を喚起されなければならないのか。屈辱的ではないか。それを屈辱的だと思わないやつだけが容色漁りができるのだ。単なる犬ではないか。



だから、「見ていたい人」と「付き合いたい人」の区別が考えられない。見る、という行為の浅ましさよ。私の存在を単純な「目」に還元しようという権力には全力で歯向かうのだ。だからこそ、美人には優しくできない。貴様らはよほど思いあがっているのだ。僕は吐いて捨てよう。



一緒にいたい、と思いつつ、相手を突き放すことが同時にできてしまう。僕は自分に恋愛感情を抱かせる人が許せないんだと思う。
能楽鑑賞、稽古だけが趣味です、というような人生にしたい。



正直、どらまてぃっくなんて求めてないわ。一つのことをダラダラと、ひたすら継続していく。時代とか社会とか、そんな大文字のものを気にかける生き方はしたくないもの。そんな生き方をするくらいなら滅びゆくものたちと共に沈んでしまったほうがいい。



部屋の片隅で古書を貪りながら陰気を振り撒いて梃子でも動かない愚鈍な人でいたいです。



死ぬまでにいろいろなものを見てみたい、という欲求が不思議と自分にはない。世界のどこに行っても所詮、見える景色に大した違いはないのだと思っているからかもしれない。よしもとばななの「TUGUMI」の主人公は、つぐみのことをそのように表現していたような気がする。病弱で狭い世界しか生きることができないが、世界中を旅して回った人よりも多くを知ることができる人。そういう人になるしかない。



この四畳半で見えるもの以外に何があるのか。首狩り族の村に行ってもたぶん、平凡な家族スケッチしか持ってこれないだろう。私にはフィールドワークは無理である。



私にとって旅をする、ということにどんな意味があるのだろう、と考えてしまうと何処へも行けなくなる。せめて謡跡百ヶ所くらいは網羅してもいいだろう、自己目的にするには丁度いい素材だ、と思い定めた。



何年か前、アイルランドに行った時、もうこれほど濃密な時間を旅において過ごすことはないだろう、と悟った。私にとってそこが目的地であるような旅はもうないのだ。根拠は特にない。



その代わり、自分の目が見えなくなる時までに(そういう時が来る、と仮定しての話だが)できる限りたくさんの本を読んでおきたい、とは思っている。音楽は聴けなくともいい。声さえ出せれば。しかし、目が見えない、となると字が書けなくなる、読めなくなる。自分自身の根幹にある「言葉」に対する感度を測るものが失われるのは非常につらい。だからその時が来るまでに、自分の中にできる限りの言葉を蓄えておきたい、という思いがある。



よく、自分の四肢や五感が徐々に喪失していく、という思考実験をする。自分が老いて、身体が欠損していくその刹那を夢見ている。禅の教義には、このような身体欠損の夢想があるようだが、自分の身体が十全でなくなる時を考慮するのは生きていく上で大変重要な心構えであるように思う。なぜならそこで「人間性」が試されるからだ。



私は最近、「老い」を意識することを心がけている。人は死ぬまでにまず老いる(そうじゃない人もいるが)。ある意味、「死」よりも恐ろしいものが「老い」なのである。なぜなら死は体験できないが、老いはその機会があれば確実に体験するものだから。死を想え(メメント・モリ)ではないのである。老いを想え。



こうして言葉を綴り、物事の道理について考えを巡らせることができるのも私が幾分か、正常な判断力と語彙力をまだ保っているからである(その判断の是非は問わないでほしい)。しかし、いつまでも明晰でいられるわけではない。明晰な判断と思考の膂力を失ってもなお、人間は人間であり続けるのか、あるいは何か別のものになっていくのか。私はそこに興味がある。



老いる。ぼんやりとしていく。それを前提とした哲学でなくて何が「思想」であろうか。私は身体の剛健さを前提とした「旅」も「哲学」も信用できない。弱きもの、汚いもの、醜いもの、鈍いもの、ぼんやりとしたもの、が吐き出す言葉と美学。人間が辿り着く場所は結局そこしかあり得ない。



だから私は、若さを信じない。健康を信じない。身体を信じない。旅を信じない。哲学を信じない。
政治家やめる、って言いながら新党作るとかね、もうアニメは作らないと言いながらアニメ作っちゃう人と同じくらいお節介ものの臭いがしますよ。



だいたい人間、60過ぎないと「~をやめる」という発言は信用しちゃならんね。40そこそこの人じゃ、現世に未練たらたらだもの。まして政治家になるような野心家。性欲が有り余ってしょうがないでしょうよ。



でもね、そもそも「政治家」って「職業」なんだろうか?別にウェーバーの著作を引き合いに出すわけでもないけども、政治家というのは「やくざ」とかと同じで、いついつやめる、ということができるようなものではないのだろう。



天性の政治家、というのは政治家でしかあり得ないのかもしれない。政治家という「生き方」しかできない人に対して「政治家」という表向きの表象を与えているに過ぎないのではないか。だから公務員としての身分などは上辺に過ぎない。真実、彼らはその本性が政治家に生まれついているので身分などはどうでもいいのである。それこそ、足を洗う、などということでもなければ政治家をやめることなどできはしないだろう。それは「出家」するような覚悟を伴うのではないか。



40そこそこの血気盛んな働き盛りの男に「出家」を迫るのは少々酷というものである。政治家としての彼の評価はともかくとして、彼に政治家としての進退を問うのは無理があるというものかもしれない。
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