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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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コネがあるといい仕事がふってくる、ってのはマジだと思う。


でも選択肢なんてのは無数にあって、自分があらゆる可能性から選択できるなんて考えるのは幻想でしかない。ありついたものには縁があり、そうでないものには縁がなかった、と考えるには救いがある。


自分が可能な限り広い選択肢から選択できると考えることは救いになるだろうか?


むしろ目の前に開けている可能性の一部が自分の縁なのだと考える方が、選択という行為の神聖さを保てると思う。


選ぼうと思えば選べてしまう状況というのは、選ばなければ怠惰、ということになってしまう。可能性が広がるのはいいが、広げたままにしておくことはできないし、その中の大半の可能性は消え失せる。


消えた可能性は自らが存在し得たことをこれみよがしに見せつけるだけに、出現しなかった可能性よりもたちが悪い。選ぼうと思えば選べたと思わせることで人を惑わせる。


「密室の中の苦行」というのは案外耐えられるんじゃないかと思う。生きるか死ぬかしか選択肢がないなら、生きようとするしかない。しかし、窓が開かれ、世界が広がり、「よりよく生きる」という新たな可能性が生まれたとしたら?


知ることで安らぎは得られない。知ることは光を見させるが、よりよく知ることは自分の不遇感を育てるだけだ。知らないほうがいいことはいくらでもある。


しかし、「知らない方がいいことがある」ことを知ってしまえば、もう「知らないでいる」ことには耐えられないのだ。


自由になる、というのは、そういう不遇感と隣り合わせの感覚じゃないか。知ることで人は自由になるかもしれないが、そのために「不遇感」という対価をきっちり支払っているのだ。不遇感とは、皆が公平に扱われるべき、という感覚の裏側である。


自由になればなるほど、相対的な不遇感は増す。もし不遇感に悩まされたくないなら、自ら自由を切り捨てればいい。自由を捨てたって、生きることをやめるわけじゃない。


「選択肢を選ぶ時」ではなく、「選ぶことを拒絶した時」に、「生きる」という原理が生まれるんじゃないだろうか。
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