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- 06/24 [PR]
- 11/29 伝統芸能と健康
- 11/08 美人哲学者の密室
- 11/08 人工知能論の貧困
- 11/08 能の「中世」について
- 04/01 私が私であること、とはどういうことか。
Title list of 雑記
このことの真実はさておき、伝統芸能の世界に片足を踏み入れることが健康に繋がるという保証はなく、むしろ人間を不健康にすることのほうが多いのではないか。
と、いうようなことを考えるに至ったのは、先日、友人が出演する舞台を見に行った時である。正直、なんて健全な世界にいるんだろうと思った。劇団員、というと、世間では良くも悪くもアングラなイメージを与えられ、「健全さ」からは程遠い印象を持たれている方も多いかと思う。現に、私はそんなステレオタイプを抱いていた。
今でも、そういう偏見が消えたわけではない。劇団員、というとなにかチャラチャラしてそう、だというイメージは残念ながら、劇団員という世界に関心を持つ青年淑女諸君にとっても、魅力にこそなれ、そこから遠ざけるマイナスイメージとはあまりならないだろう。だが、その話はここでは直接関係がない。
伝統芸能の世界が不健康であり、現代演劇の世界が健康である、というのは極論かもしれない。おそらくそうだろう。伝統芸能といっても、私が知っているのはその中でも「能楽」という一部門の、さらにほんの一部の世界でしかないし、現代演劇の世界に関しては全くの素人に等しい。しかしそれでも、最初に述べた私の感慨にはそれなりの理屈がある。
まず、伝統芸能に世界に片足を突っ込もうとする人たち(両足ではない)には、多かれ少なかれ、それが「伝統芸能」であることに価値を見出している人たちが多い、ということがまず挙げられる。現代演劇の世界は常にフロンティアであるから、確立された権威なるものを身にまとう昂揚感といった要素は、皆無ではないにしても、外部からその世界に新しく参入しようとする人々を引き付ける主因になるものではない。ところが、伝統芸能、殊に、参入障壁の比較的ゆるいものにはこうした「伝統」を身にまとうこと自体が、「自分に箔をつける」ことになると無意識的にしろ、意識的にしろ、考えている人々が一定数存在する。いや、「一定数」という言い方はかなり甘めにつけたもので、実際には「大半は」と言い換えてもいいくらいかもしれない。
かつて、私が伝統芸能の世界に触れてみたくなったのも、それが「伝統芸能」であるというそのことから離れて理解することは適当ではないだろう。私は確かに、それが「能楽」だから、600年も続く伝統だから、興味を覚えた、関心を抱いた、ことは否めない。そして、それがある種の「権威」を帯びているからこそ、その世界の一端に触れてみたいとも思った、これが理由のすべてではないにしろ、この、確立された権威である、という一点をのぞいたら私は他のサークルに行っていたかもしれない。
伝統芸能を稽古している、ということは、それ自体がある種のステータスになることは否めない。それは歴史的に見ても、不可避的に「教養」なるものと結びついてくる。良家の子女はみなこぞってお琴やお茶や書道の稽古に励む。そんな時代もあったし、今でも部分的にはそうだ。だから、こういう世界において伝統芸能を習う、というその事実が持つ社会的意味付けを捨象してその精神性のみを問うことはかえって無意味なことなのかもしれない。けれども、先日、舞台で友人の姿を見て、果たして本当に私は、彼と同じ、「舞台の稽古をしている」と言えるだろうか?と自分に問いかけずにはいられなかった。私は彼と同じ「稽古」なんてしていないじゃないか。自分の芸の上達のみを目指して自分の全精神性をかけて稽古に臨んでいる彼の姿から見て、私のやっていることはなんて「不健全」なんだろう、と。
同じ「アマチュア」でも覚悟と矜持が違う。そのように思わせられることもある。何しろ、向うは自分で上達しなければレゾンデートルが保てない。劇団員である、ことには殆ど意味がない。よい役者にならなければならない。そこにすべてを賭けなければならない。伝統芸能において「アマチュア」というのは、常に背後にそうした伝統を重んじる世界が横たわっていて、自分自身の未熟さを救ってくれることがある。演技は下手だ。だがしかし伝統芸能だ。それがなんだ、という話だが、実際そうなのだから仕方がない。
よいアマチュアでいるためには健全な自意識を育むことが大切であると思う。つまり、あまり図に乗るな、ということである。自分はいつまでも未熟者であり、習練が必要である。日々修業。日々鍛錬。没自我。こういう謙虚さ。伝統芸能の世界に「片足を突っ込む」アマチュアにはその伝統それ自体が自らを何者かにしてくれるのではないか、という淡い期待を抱かせる誘惑が大敵となる。これに打ち克つことは容易ではない。なぜなら、その誘惑それ自体が、当の本人をその世界に引き留めている引力の源でもあるからだ。
伝統芸能の世界にアマチュアでいる、ということにはかくして誘惑が多い。自意識を堕落させてしまうような不健康さがどうしても付きまとうのである。ここで「王道」ということが重要になる。正々堂々と、正面から芸事に励み、常に謙虚な態度で臨むこと。それが、王道を行く、ということではないだろうか。よきアマチュアでいる、ということは、王道を行く、ことでなければならない。別の世界にいる他者を僻んだり、迂遠なことをして妙な自意識の慰め方をしないことである。王道、とは、自意識過剰が矯正される場でないか。同じ道を究めようとする者たちが客観的に自分の芸の未熟さを見つめ、上達へ精進することができる道こそが「王道」というべきなのだ。
現代演劇の劇団員には常にこの「王道」を行かねばならないという誘因が存在する。常にフロンティアの世界では、自意識の慰めなどまったく無意味だからだ。伝統芸能の世界、そこへアマチュアとして参入するということはこの「自意識の慰め」という逃げ道をいかに潔く回避できるかが「王道」とそれ以外とを分かつ重要な岐路となる。
さて、この「自意識の慰め」というのは現代の「知識消費社会」のエッセンスとも言える。
我々は常に他者と違った存在でありたいと願い、市場がその願いをかなえる。願望充足の機会はいまや、ありふれてるとすら言える。様々な通信講座や資格、学位、同人サークルなど。私は私の望むものに、時間と費用をかけさえすれば、なることができるような、そんな感じがする。
でも、本当にそうだろうか?
私は私のなりたいものになれる、そんな欲望が市場を支え、市場を作っている。私は単に、願望充足の市場に流通する「商品」に過ぎないかもしれない。あるいは、お客さん?
単に「消費者」でしかない、という自嘲から自分自身を救い出すものは自分が生産者であり得るという「妄想」に過ぎないのだろうか。「伝統芸能」の世界は、そんな知識消費社会から遠いところにあるようで、実は本当に近いところにある気がしている。そういう意味で、伝統芸能の敷居が高いとは、必ずしも思わない。
ここまで書いてきて、「健康」と「不健康」についてもう少し自分なりに掘り下げた見解を提示しなければならないように思われてきたのだが、これはまた別の機会にしよう。
モデル・哲学者なんて聞いたことがない。容姿が美しい、つまりその社会・文化の中で理想とされる均整美に近い容姿を備えている人ほど哲学をしにくい環境に晒されることが要因なのだろうか。
あるいは、「金髪女」とか「巨乳」に対するような「美人」に対するステレオタイプが、当人が内面を深化させる傾向を削いでしまうのかもしれない。貴方は既に恵まれたものを持っているのだから、深刻になる必要ないでしょう?というような無言の圧力とか。
そうまでして根暗で深刻な人になる必要があるのか、といえばたぶんない。でも哲学者とアイドルの対話とか見てると、ああ罪作りな連中だな、と思うわけよ。別にどちらを馬鹿にしてるわけではないですよ、念のため。
生まれ落ちた時からの宿命なんてものは他人と交わることでしか顕在化しない。誰とも出会わなければ自分が「孤独」であることにすら気づかないでしょう。
世の美男・美女は完全密室の中で育てるべきだと思いますね。彼らが世にでて、自分の美しさに気づく前に、哲学者にしてしまうのだ。
そもそも容姿における美と精神性を両立させることの難しさこそが多くの無辜の民を死への欲望から救っているんだ。
だから密室において培養された美男・美女の哲学者なんていう人外が世に出てはならない、というのもそれは道理だ。だからこそそうしたプロジェクトを成人してから幼児退行して為し遂げようとする「メンヘラ」が後を絶たない。
属性過多なんだよな。欲張りすぎると最悪死ぬってことを知ってか知らずか、そういう精神生活送っている人を見ると見るだけで疲労感が溜まる。でもその疲労感の正体というのが自分には到底耐えられそうにない矛盾を犯していることに対する嫉妬や憧憬だったりしてな。
某政治団体の「ルッキズム」が批判されているらしいけども、「ルッキズム」という言葉の中には「凄惨な美」も含まれるのだろうか。なんとも頼りない語彙だ。
だいたい、正しい知識だとか、唯一の真実なんてものは誰にもわからないんだ、というのが前提としてあって、だからこそ専門家が必要とされ、信頼されているわけですよ。信頼とか信用とか、そういうものは果たして人工知能が担えるものなのか、というのは極めて社会学的なテーマですよ。
つい最近も、会計検査院の指摘で税金の「無駄遣い」がこれだけあった、と、ご丁寧にもニュースで報道されていたけども、じゃあ、その無駄遣い、って何?何が無駄で何が無駄でないのかを決める基準は?という問題になると途端に詰めが甘くなる。
自分の財布の中身を数えるようには、大きなお金の「計算」はできないのですよ。物の見方、考え方、というのは無数にあって、規模の大きな計算をする時にはそうした「カオス」な要素が多分に膨れ上がってくる。だから、唯一正しい正解、なんてものはない。
正しい計算をする機械が必要だから会計士がいるんじゃない。正しい、と言ってくれる人が必要だから士業が成り立つんですよ。法律家というのは歩く六法全書ではないわけで、人工知能厨はその点を過小評価しているきらいがあると思うんですね。
人工知能が人類の脅威になる、という発想にどうもなじめない。優れた人工知能が人間の能力を凌駕する、という考え方そのものに、なにか根本的な発想の貧困があるのではないかと思う。だから、どうも現在の人工知能論において社会学的分析がおおっぴらに論じられる機会が少ないように思うのは、何か物足りなさを個人的には感じているところです。ちゃんとした研究はないわけではないだろうに。
今我々の知っている能楽的な世界観は多分に近世的な感性の産物ですよ。それが日本人の文化的精神の根幹にあるもの、などと、普遍的な表現が妥当するはずはないのです。
世阿弥の時代の申楽師が体現した美の世界観は近世的な荒々しさとは相いれないものだったかもしれないじゃないですか。というかその可能性が高い。近世的なイデオロギーの部分に無自覚なまま能楽を日本の精神文化の根幹に位置づけようするならば俗的な近世讃美に近づいてしまう。
頭剃ってちょんまげつけてた時代の時代精神より、それ以前の時代の感性のほうが我々にとって理解しやすい、ということもあり得るかもしれない。
和風ゴシックみたいないかにも現代風にアレンジされた和的な表象が近世を飛び越えて中世に近づいていくのは、単なる錯覚などではないのかもしれない。我々は近世的なものを古典的なものと思い込みすぎているだけなのでは。
むしろ、俗的な近世とはかけ離れた、中世的なるものと連続した近世的なるものを我々はまだ十分に捉えることができないでいるのかもしれない。
だから私は現代的な美少年は中世日本においても十分見出せたはずだと思うし、むしろ中世的な美少年は我々から見ても美少年なはずだとかってに妄想しているんですよ。
「私が私であること」というのはそれほど自明なことでもない。要するに、一人一人が行うすべての行動について政府が情報管理をするならそういう証明は、「私です」と一言言えば足りる。でもそれはSFの世界の話。
しかし多くの人はおそらく「私が私であること」を「証明」することがそれほど困難なことだとは思っていない。いつ、誰が、死んで、生まれたか、といったようなことは「届け出」がない限り捕捉されないのだけど、「届け出」という積極的な意思を介さずとも誰かがすべてを知っている、という意識がおそらくある。
だから、「実体」と「手続き」が混濁して捉えられる傾向にある。(それはどこの国でも多かれ少なかれそうかもしれない)つまり、手続きをしなければ「相続」はおこらない、というような誤解など。「法律上当然に発生する」という文言は普通の人にとっておそろしく不安な表現なのだと私は思っている。(「当然に」そうなっているのかどうかは「目に見えない」からかもしれない)
「無戸籍」という事案において重要なのは、まさにこの点で、私が生まれて現に生きている以上、「私が私である」ことを疑う人はまずいない。意識の上では、「私」の存在は自明なのだ。(これはデカルト的である)ところが、その「自明性」を担保しているのは自治体の捕捉作業なのであり、どこまでも人の手が加わっている。
あるいは、「なぜ気づけなかったのか」という問いもこの問題と同一平面上にあると言えるかもしれない。そこでは「気づく」ことが自明視されているからである。気づく、こと以前に、気づくための「事実」を捕捉するための手掛かりがなければならない。そしてそれはどこまでいっても「手掛かり」でしかないのである。(こういうと何とも心もとない)
裁判所でも、私が私であることを裁判官が証明してくれるわけではない。もちろん、「釈明権」というものがあるけども、裁判官はいつも「真実」を明らかにしてくれるわけではない。要するに、民事的な「市民的感覚」というのは「私が私であることを証明できること」に他ならないと言えなくもない。そしてそれは人々の積極的な行動を必要とするが故に、「めんどくさい」ものでもある。
その「めんどくささ」の担保には何が賭けられているのだろうか?あえて答えは留保したい。
だが、ここでちょっと飛躍させてみる。もし、冒頭に述べたように「一人一人が行うすべての行動について政府が情報管理をする」ような世界があるとしたら、そうした世界では「めんどくさい」「私が私であること」の証明は本当に必要とされないのだろうか?と。これは哲学的であるし、SF的でもある。
だから実は、本当に、「私です」と一言言えば足りる、のかどうか?私にはちょっとよくわからない。