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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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私が稽古を再開しようと思うに至ったのは、一つには「責任」という問題があるのです。



650年も続いている伝統芸能の世界に片足の先っちょくらい突っ込んでしまった以上、もうそれは、その世界の一端にいると言ってもいいわけで、そういう状況にいる人間が、その責任を何らかの形で還元していく必要性は前から感じていたのですが。



「責任」というのは、教育的な責任、とは違うと思います。曲がりなりにも70年続いている伝統のクラブに所属して記念の行事で能の舞台に上がらせてもらったことの意味、について、その重みを一言で表現するならそれは、責任、という言葉にしかならないのではないか、という意味ですね。



「還元」というのは、先輩が後輩に対してする教育的配慮、というのではなく、もっと広い、文化的、社会的な意味での還元、ということを考えています。広告メディア的なことをやろうというのでもないです。そうではなく、私自身がそれを「体現」していくことが還元なのではないかと最近は考えています。



ここに至るまでにはそれなりの時間がかかったのだけど、一つには、その「責任」の問題をどう捉えたらよいのか、自分でも葛藤があったからです。安易に回帰することは許されなかった。所謂「ナショナリティ」から距離を取りたいという気持ちもあった。



「能楽」に対する近年のメディアの風潮というか、動きに対して私は少し違和感を持っていて、それは「スーパー歌舞伎」的なものを能楽に導入していこうとする動きに対する反発みたいなものです。でもまあ、それはここでは大した問題じゃない。私自身の「責任」というのは、もっと個人的なものだから。



先生にとって能楽との出会いは必然だったのかもしれないが、私はまだその境地には至っていない。一生至らないかもしれない。だから、「責任」という言葉で胡麻化しているとも言える。その胡麻化しに、まず身を委ねてもいいのかもしれない。というより、そうせざるを得ない。



「責任」というのは「必然」の代替物なのだ、ということです。必然に至らない、辿り着けないから、責任をとる。必然を覚知できる人ならば責任という言葉は使わないでしょう。



能楽の持つ重力に引かれている、それを人生におけるマクロな次元で捉える言葉を私は知らない。しかし、私が探究しているテーマになくてはならないものがそこにあることは確かで、だから本当は責任という超自我的表現が適当でないことはよく分かっているつもり。



そもそも何故私が能楽から距離を取っていたのかと言えば、一つには私が西洋史に耽溺していたからでもあります。ナショナリティから一歩身を引く必要性があった。言語とナショナリティの問題が私の研究テーマだったからです。



就職してからは法制史の方向に関心が移ると同時に、ナショナリティを体現する必要性に迫られるようになった。それまで客体的なテーマであったナショナリティを、自ら引き受けなければならない立場になった時に、それまでのバランス感覚を維持することが困難になっていったのです。



ナショナリティへの単純な回帰というのは許されない。一度距離を置いたものを身に引き受けることで内在化するだけでは幼児退行と同じであるから、そこに葛藤があった。何らかの形での止揚、アウフヘーベンが必要であったわけです。



結婚はその端緒になった。私の中で新たな糸口が出来たように思う。一言で言えば、身体の組成が変化した。二胡の音色が何かを齎したのかもしれない。それまで客体化、主体化の狭間で揺れ動いていた能楽/ナショナリティが少しづつ、自分の身体の中で一定の位置を持つようになっていったように思う。



責任というのは、だから方便だ。回帰するのでもなく、退けるのでもない距離感を実現するための経路に過ぎない。そして私は責任という表現が好きではない。



これからの10年、20年を見据えて、私は自ら選択をしている。どこに辿り着くのかは知れない。しかし、今必要なことだけは知っている。




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百合さんの言葉が一番印象的だったかな。自分に呪いをかけないで。それな、って思った。



みくりさんが理想的な嫁じゃない、ってところが、ガッキー神話に対する不意討ちにもなっていたし、そこが好感持てる。小賢しいとは思わない、なんていう津崎さんが最後にしっくりくる。保守的な価値観を柔軟に落とし込んでいく手際とか見極めが、アラサー世代の感覚を掴むのだろう。



ゴールを安易に設けない姿勢は、それだけ人と人との結びつきのあり方が混迷の時代を迎えている証左でもあるのだろう。しかし、それはまったく答えを出さない相対主義とも違う。それは、まさしく「二人で二人を乗り越えていく」一つの実験なのだろう。



世代感覚と時代性をうまく掴んでいたドラマだと思うが、同時に極めて言語的な作品だったと思う。いわく、「小賢しい」成分が多少多目に含まれている。その小賢しさが、ある意味でリアルな大衆性を帯びている現状というのは、私が居心地がいいと思える世界ではない。



面白いドラマだったと思う。けれども私はそこに、大文字のテーマ性を見出だしたくはない。ロゴスに訴える大衆ドラマ作品のテーマ性を掘り下げるということは大衆的なロゴスを認めるということ。卑近な世界をロゴスで埋める営みに、私は参画したくない。



森山みくり的な小賢しさが津崎というロゴスによって包容される世界に大衆性を与えるのは無謀ではないか。逃げ恥にはそういう不健康さがある。恋ダンスの愛らしさは、逃げ恥が抱える過剰なロゴスの裏返しなんですよね。作品本体が過剰な言語性を抱えているからこそ、非言語的な恋ダンスが際立つ。



だから私は、津崎さんの「小賢しいとは思わない」という台詞にホッとした。大衆性を守ったという意味で、あの台詞は救いである。小賢しい女がロゴスな男と向き合うという過剰に言語的な物語が、小賢しい女が小賢しさから束の間自由になるという大衆性(情動)の物語にうまく逃げおおせた瞬間。



私はそれだけ大衆性を愛してやまない。ベタで王道であることを愛してやまない。「好きの搾取」など問題ではないとすら思っている。物語にスパイスを添えるロゴスは歓迎できるが、物語がロゴスそのものであることには耐えられない。物語とは、大衆的であるべきものだ。



だから私は「好きの搾取」を問題にするみくりではなく、「小賢しいとは思わない」という津崎の言葉で物語が締められたことに安堵するのだ。それこそが、逃げ恥に散りばめられた過剰なロゴス、すなわち蘊蓄を活かし、腐らせないために必要なことだったのだと思う。



一方で、本来大衆的な安堵感の対極にあるべきロゴスの息苦しさがムズキュン的要素に紛れて現代生活のトレンドに取り込まれていく世界というのは「痛々しい」と思える。日常で使われるネット用語やニュース番組で流れるTwitterのつぶやきと似た感じの痛々しさがある。



私はそういう痛々しさを不健康さと勝手に言っている。本来インテリの戯言であるようなロゴス中心的な言説が大衆性を獲得する現象は近年特に見てとれるが、逃げ恥現象もそのうちの一つに数えられるのではないか。日本死ね、が流行語大賞に選ばれる文脈と相似性があるのだ。



日本死ね、の主張の中味には共感できるがそれが流行語大賞に選ばれることに不快感を抱くのと似たような次元で、ドラマとしての逃げ恥を評価し、それが受け入れられ、分析される世界に嫌気がさす。無節操なロゴスの氾濫は敵である。害悪である。

指輪を買いました。ヴィーナスフォートにて。





告白は、観覧車の中。
シチュエーション的にはベタの王道を行く、という感じ。





ここまでの顛末を完結に述べると、





2月:某婚活サイトでメッセージを交換。デートする。
3月:正式に付き合う。@ジョイポリス。
5月:日光にお泊りデート。
7月:それぞれのおうちに挨拶
8月:イマココ





まあ、こんな感じ。なんやかんやで出会って半年なんですね。





実際に付き合い始めるまでは、まさか婚活サイトで知り合った相手とそういう関係になるとは思ってもいませんでした。まあ、合コンだとか、婚活だとか、今年に入るまで、もっというと、前年末に以前の相方と別れるまでまったく眼中にありませんでしたからね。人と人との出会いは作為的であるべきでない、とりわけ異性関係は神聖なものなのだ、という信念も人並みになかったといえば嘘になるでしょう。心からそう思っていたのかと言えばたぶん怪しいですけど。





元来ロマンチストである自分が婚活という「作為」を受け入れたのは、その時の気分がそうさせたのだというのがたぶん正しい。相方と別れて、肩の荷が下りたというか、なんとなくすっきりしたというか、そういうポジティヴな開放感のようなものがあったのだと思う。まあ、そりゃそうだ。なにぶん、5年も付き合っていたのだ。





なぜ以前の相方と決定的な関係にならなかったのだろうか、と今にして考えるが、これも正確なところはよくわからない。自分のことながら、皆目よくわからないのである。別に仲が悪くなったわけではない。むしろ喧嘩すらまともにしたことのない5年間だった。それが倦怠の原因になったのではないか、という可能性はすぐ思い浮かんだが、それとて決定的な要因とは言えない。「倦怠」が理由の一端をなしていた、それも大きな一端をなしていたことは事実だと思うけれども、それがすべてではない。たぶん。おそらく。





喧嘩するほど仲がいい、とはよくいうけれども、私は「喧嘩する」ほど自己主張が強くない。たとえ付き合った相手の気性が激しくとも、大概自分が折れる。別にプライドがないわけではないが、どうも喧嘩の作法を私は知らない。これは私の個人的な、パーソナリティに関わる話なので詳しい説明は省くが、私は喧嘩ができないのである。無論、それが別れた原因だといえばそれもそうかもしれない、としか言えない。要するに、決定的な理由などなかったのだ。(たぶん)





私とて、別に以前の彼女に愛想を尽かしたわけではない。というか、私が他人に愛想を尽かすことは殆どない。これは別に誇張でもなんでもなく、実際そうなのである。





別れ際、私は彼女にメールを送った。内容は、そろそろ新しい段階に行かないか、と誘いをかけるものだった(もちろん、それなりのレトリックは駆使して)。それまでの長い期間、私たちの間には殆ど音信は絶えていた。実質的にはすでにこの時点で「破局」していたのだけど、私としては相手が「死に体」かどうか、窺う必要があると思った。そして返信は、あった。内容は、。。。。。。お察しの通りである。





そんなこんなで、なんやかんやで、以上の流れである。
そこに必然性は皆無。
別れた直後に、一月ほど置いて、再びパートナーを見出すに至る。





タイミング的に、次に付き合う相手は「結婚相手」しかいない、と思っていた。こういうことはアラサー女子が考えることであって、私のようなしがない男子が考えることではないのかもしれないが、なんとなく、そう思った。別れる直前に、そういう気分になっていたという事情もあるかもしれない。それで婚活サイトに登録してみた。なんとなく、ゲーム感覚で、メッセージの交換相手を見定めるうちに今の彼女と出会った。そういうと大変不謹慎なようであるけども、「婚活サイト」に登録している以上、自分も相手もそういう付き合いを求めていることが前提なのだから、私もそこは割り切って対応していたと思う。





初めてのデートで、私は告白した。
まあ、率直にね。
タイプです、って。





そこは、タイプなんてものはない、と普段から思っているくらいだから多少脚色が混じっているけども、実際、相手の空気感に親しみを覚えたことは事実である。どこかであったな、こんな感じ。なんとなく、懐かしい感じがした。と、これまた不謹慎な理由であろうか。





けれどももちろん、彼女は過去の幻影ではない。私にとって彼女は、今まで付き合ってきた異性の中でも最も自分に「合っている」と感じる。性格、好み、容姿、声、そのすべてにおいて。





こんなことを真面目に書いている自分が恥ずかしいが、自分が生涯のパートナーを選ぶとして、選ぶことができるとして、この人以上の人はたぶん、いないだろうな、と生理的に感じた。それが指輪を送った理由の殆どすべてである。あとの少しは、さあ、ご想像にお任せする。(無責任)





さて、思えば今年の上半期はいろいろなことがありすぎた。身内の死、新しい出会い。エンゲージリング。もはや自分でも半年前の自分は全然違う人であろうと思う。人生にはそういうタイミングが、あるのだろう。たぶん、これからも何度も。





私自身の心境の変化、といえば、家族というものに対する見方、それが少しだけ、リアリティを増した、とか、老い、というものがより重要なテーマとして浮上してきた、とか、そのくらいだろうか。相変わらずメランコリックな気質は変わらないし、相変わらずゴシックなものが好きである。たぶん、それは変わらないのだろう。





今後、やりたいことはいくつかあり、そうした個人的な願望と家庭と、どういう風に折り合いを付けていくかが一つ問題になりそうではある。まあ、これとて誰もが通る道といえばその通りで、別に私固有の問題とは言えない。ただ、どうせ気の向くまま、風の向くまま、に生きるのなら、自分なりの思想なり、哲学なりを持ちたいとは常に思っていて、それは日々の実践で示していく他ないと思っている。また、学術的な方面でも一つ、あるいはいくつか、自分なりに掘り下げてみたいと思うような問題系が姿を現しつつあるので、それをより明確にしてきたい。





どうなることやら。





ひとまずは、自分自身の体験を踏まえて、人が誰かと出会い、家族をなし、経済を作っていくとはどのような事象なのか、を考えてみたい。個人のライフサイクルにおける一連の「イベント」と、マクロ的な規模での経済事象との関わり、を歴史的なスパンを視野に入れて考えてみたい。





というと、なんだか壮大なテーマであるが、要するに、人は「個」であると同時に「種」なのである、ということが全面的に葛藤を孕んだ事象として浮かび上がってくる、顕在化する、のが、我々の生きている、今、という時代の一つの特徴、歴史的位置なんだ、という認識がまずあって、それを「私」という個人の経験、ないし、認識の次元から、考えてみたいのです。焦らず、じっくりとね。
先日、学生時代の先輩の結婚式にお呼ばれしちゃったので行ってきました。




明治記念館、すばらしく大正ブルジョワな建築ですね。真田丸を見てだらだらしていたら家を出るのが遅れ、到着がギリギリになってしまい、やむなく欠席しようかと考えもしましたが、なんとか間に合ってほっとしました(もう少しちゃんとした社会人であるべきだといつも思うのだよ、これでも)。




すばらしく金がかかった披露宴でした。さすがは公務員夫婦。市民の税金がこのような形で還元されることで社会は回っていくのですから、これは正しい浪費の仕方なのです。別に皮肉ではなく(私も公僕だ)。部活のメンバーの結婚式に出席するのはこれで三回目なのだが、どんどん豪華な仕様になっている気がする。別に対抗意識があるわけでもないだろうに、どうもみんな豪華なものになるのだ。




私が結婚式を挙げるとすれば、やはり日本古来の式に則ったものと、現代社会生活をある程度反映した西洋文明の栄華(すなわち俗化されたキリスト教的モチーフ)とを両方とも取り入れたいと考えているが、さすがにあそこまで豪華なものにされると躊躇する。まあ、所詮、結婚式なんてものは見栄をはる場でしかないのだから、そこは体面をとるか、コスパをとるか、妥協するしかあるまい。




うちの嫁は割とポピュラリティのある価値観を持っているので、そこは世間の常識に適った形式でやることを望むだろう。私の場合は、いつか吐露したように、棺桶の中から目覚めたヴァンパイアに扮した特殊メイクで着飾った私が中世の古城に眠る美しい姫君を月夜の晩にさらい永遠の口づけをかわす、ような趣向でもぜんぜん構わないのだが。




ところで、先日嫁と飲んだときに将来の話になり、私は老後のことを最近よく考える、なんてことを言ったら嫁が、その前にまずお父さんになるわけでしょう、と極めて常識的なつっこみを入れてきたのである。確かに老害になる前にまず親になるのが時間的順序である、というか天地の摂理であることは否定しがたいが、なんとなく私は、親になることよりも歳をとることのほうを重くみるきらいがある。




親になることは全然当たり前ではないので親になることはある種の選択であり、人為である。けれども、老いることは選択の結果でなくて必然であるのだから、親になることよりもより深刻である、と理屈をこねることもできるが、たぶんそうではない。親になっても私は私だが歳をとった私は全然私ではない可能性がある。こういうことではないか。




嫁がいて、子供がいる生活というのは私の身体が引き受けるものであるが、老いというものはその身体自体の変化なのであるから、親になることよりもより本質的変化であるといえはしないか。嫁を持ち、子供を持つこの身体が老いてゆくのである。家族は老いの中に包摂されているともいえるのではないか。




家族を持つ、ことも老いのある種の形態である。人は老いることで家族を持つようになる。いや、老いるからこそ、家族を持つのだ。




だが、女性にとって子供を持つということが男性よりもより本質的な経験として捉えられるのは当然と言えば当然なので、うちの嫁とのそういう感覚の違いをことさら持ち上げる必要はあまりないのかもしれない。父親にとって子供はやはり肉体の外にあるものだし、その点、自らの肉体と直接繋がっている母親とは子供を持つ、という経験における身体的感度に自ずから差が生じる。




だが、私にとって「老い」ということが人生のテーマにおいて本質的である理由は、老いという事象の中に、人間の救いのなさ、というか、幸福というものの不確かさが、すべて現れているような気がしてならないから、なのかもしれない。私は幸福というものに非常に懐疑的なのだ。




幸福というものに懐疑的であるほうが安定した心持で世の中を渡ることができるのではないか、という気がしてならない(いつだって安定志向)。束の間の幸福という形でしか幸福を生きることができないなら常に警戒していたほうがいざという時の心構えにもなる。




無心に幸福を祝う、なんてことをやる祝宴というのは気が気でない。結婚式とは恐ろしい行事である。おそらく私が恐れているもっとも厳粛な儀式。こんな非人間的で野蛮な風習は心を無にして乗り切るしかあるまい、と今から腹を括ってしまいたくなる。




私にとって常識的な感覚というのは極めて悍ましいものに見えることが多々あるので、これもそういうイニシエーションだと思って諦めるより他ない。そんな風にして、私は最近、いろいろなことを諦めているような気がする。私の思い通りにならない世界に対して、ではなくて、思い通りにならない私自身に対して、なのかもしれない。




というか、世の中こういう風にあってほしいという思いはすべて傲岸不遜な願いだし、私はそれほど強い怨念を世の中に対して抱いているわけではない。常識人というものが、単に恐ろしい。それだけである。私は臆病者であるに過ぎない。




私は自分を極めて普通の人、というか凡人だと思っているし、私ほど「典型」という言葉が似あう人間は極めて稀なのではないか、とすら思えてくるほどに、バランスのとれた人格と肉体を有している、と考えている(どんな自己意識だそれは)。




なにも誇張した表現でなく、本当に、マジでそう思っているので、私のことを変わっているという連中のほうが頭がおかしいのではないか、とよく思う。が、それも最近はどうでもよくなった。人間はそれぞれみな個性的なものだ、そんな風に、出会った初日にうちの嫁は言った。その極めて常識的な表現に思わず唸った。誠にその通りだ。私だってそうに違いないと思っているよ、心から。




そして最近はもう、そんな自意識に悩まされることもだいぶ少なくなった。どうでもいい。なにもかもどうでもいい。そんなアナーキストのような気分に浸ることが多い。別に毎日つまらないわけではなく、本当にどうでもいいことが世の中多すぎるのだ。




こういうことを書くとうちの嫁は極めて常識人で、だからお前は彼女を選んだんだろう、と思う向きもあるかもしれないが、私からすれば彼女の方もだいぶ「ズレ」ているので、彼女からすれば私のほうが遥かに常識人に見える、ということもないわけではないのではないか(いや、それはちょっと反語的すぎるかもしれない、と自分でも思う)。




私からすると、彼女はあまりに世界を楽観視し過ぎているきらいがあるし、その点はとても不安に思う。けれど私があまりに鬱屈した性格なので彼女の気質の方が標準的なものに近いのかもしれない。




不安、漠然とした不安、あの芥川を自殺に追い込んだ「ぼんやりとした不安」というのはこういう気質のことを言うのかどうか、昔から思うところがある。別に健康に難があるわけでもなし、何か生活上の困難を抱えているわけでもなし、容姿に格別問題があるわけでもない人間が何か終始鬱屈した気分を抱えているとすればそれは性格、気質に拠るもの、としか考えられない。けれど私自身は案外、こういう気分にある時の自分が好きなのかもしれない。というか好きなのだ。こういう気分が。すっきりとしない感覚を抱えているほうが落ち着くのだろう。




もちろん私だって人並みに、青い空の下で健康的に生きていきたいと思う。それを実現できる条件は私にだって、あるはずなのに、なかなかそういう方向に気分が向かないことが多い。




このメランコリーは反転する。反転すれば、一見肯定的な世界観になる。その反転した眼差しで、人を見ることに慣れてしまうことは、老いを先取りしているようで、きっと後で反動がくるに違いない。それがまた恐ろしい。




ああ、これもとりあえずは「どうでもいいこと」だろうな。




彼女からすると、私はとても心配事なんてなさそうな人に見えるらしい。自分でもそう思う。自分で思っているほど私は深刻な人ではないのだ。そんな風にありたいと思うよ、これからも。









人工頭脳が政治や行政の場に進出する時、そこで生じる問いは、究極的には、「人間は人間以外のものに『正義』の問題を委ねることができるのか」という問いだと思っている。




国会議員たちの喧々諤々の議論よりも、AIのほうが「効率的な社会政策」を導き出せるはずだ、という人もいる。けれども、喧々諤々の議論の末に出てきた結論に我々が納得しないからといって、人工頭脳が導き出した「答え」に対して我々が難癖をつけないだろう、とどうして言えるのだろう。




最終的な審級を人間以外のものにする、これは「革命」とも思える。けれどミクロな部分では、そうした「革命」はすでにじわりじわりと浸透してきているのではないか、という気もする。




様々な手続きが簡単になる、便利になるということは、そこに働いていた判断作用がいかなる性質のものであったのかを忘れさせる。「あれかこれか」という選択肢が示された時点で、もはや人間には「あれかこれか」しか選択の余地はないのである。これはどういうことか。




裁判官に「権威」があるのは「自由心証主義」だからですよね。裁判官は最終的な審級であると同時にその判断には裁量という名の自由がある。だからこそ「正義」が実現できるのだともいえる。裁判官の「良心的な判断」というやつね。




人々が待ち望んでいる答えが「正義」なんじゃない。こうあるべき、なのに、そうならない、時に正義が実現する余地がある。こうあるべきものがそうなっている時には「正義」は問題にならない。




だから、「あれかこれか」という場では「正義」の話なんてできないわけです。あれでもなく、これでもない、という判断作用が可能であるという状況の中で「正義」の問題は出現するのだから。




そういう意味では、正義とは「秘められたもの」であるともいえる。あれでもなくこれでもない、という状況の中で示されるものに対する「期待」こそが、正義を出現させる。正義は期待なのだ。期待は秘められていなければならない。漠然としていなければならない。




だから、漠然とした不安、ないし、その裏面としての期待のないところには正義は出現しない。あれかこれか、という世界にはその漠然さが足りない。




ミクロな部分での変化を追う、というのは面白い。「電子認証システム」なんか、あんなものがなぜ「認証」になるのか、ということは純粋に法的思考からは説明がつかないことだから。




何を信じるか、ということですよね。何が信頼できるのか、というのは社会的な感受性の問題なのだ。だからどちらかというと、社会心理学とか社会学とかの問題なんだと思う。


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