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- 04/28 [PR]
- 09/17 働き方改革と管理職
- 04/01 愛すべきもの
- 02/08 ストック・オプションの発行と「行使の条件」
- 12/28 財団法人における「理事」の解任
- 12/19 大司教は「辞任」できるか?
Title list of 雑記
働き方改革だって、見方を変えれば労働資源の「選択と集中」ですわな。金があれば選択も集中も必要ないわけで。働き方改革で豊かな生活を手に入れる人がどれだけいるでしょうかね。時間と金はトレードオフなのです。
日本の場合、若いうちの給料が少ないから本来若手には残業してお小遣いを稼ぐインセンティブがあるはずなのだけど、残業しても残業代を出さない会社がたくさんあるせいで働き方改革の主張が勢いを持ってしまうのですよね。だから、いい会社に勤めている人は残業できなくなるせいで手取りが減る、それに不満を持つ人も多いかと思います。働き方改革は「下に合わせる」改革なのです。少し前に、日本郵政が転勤のある正社員の福利厚生を転勤のない正社員の水準に引き下げる方針を示して話題になりましたけど、あれと実質的に似たような状況が働き方改革の名の下に正当化されるわけです。
働いたら働いた分だけお金が貰える会社にいる人は働き方改革をよく思っていない人が多いかもしれません。しかし世の中マジョリティの意見は強いので、そういう条件のない企業に勤めている人たちの利害と資本家の利害とが一致してしまうわけですね。上流サラリーマンを中流サラリーマンにならす改革だと、私は思っています。
残業できなくなったからお金がない、という上流サラリーマンの声に対して経営者が次に出してくる手口は、成果を上げればその分給料を上乗せしよう、です。働き方改革は成果主義の一層の導入と本来セットなのですよ。残業して小遣い稼ぎをするか、成功報酬のために終りのない努力をするか、どっちがしんどいか?
まあ、考えてもみてください。プレミアムフライデーは労働者を幸せにしたか?月末金曜のクソ忙しい時期に早く仕事を終わらせる努力をしても得られるのは「時間」に過ぎません。お小遣いが貰えるわけでもないのです。それよりかは、いつもより残業して来月の懐を少しでも暖めたほうがいい、と私は思いますけど。時間を食って満足なんかできやしないのです。
だから、管理職がしんどくなっている、という姿は過渡的な形態であって、こうなると管理職労働者にとっても、経営者にとっても、最善の選択肢は管理職手当の拡充と管理職業務の選択と集中となる。これからは、管理職がつらい、のではなく、管理職にならないとつらい、という時代になっていくのではと思います。手当ががっつりついた管理職か、残業しない(できない)かわりにお小遣い程度の給料に甘んじるヒラ労働者か。二極化するでしょうし、それが経営側にとって望ましいのです。
ヒラ社員でもそこそこ満足できる、のは、基本給の上昇率が大きくて残業することで得られる果実が管理職手当を貰う果実より多いから。しかし基本給の上昇率が低く抑えられ、残業も抑制されるとなると、それなりの生活を得るためには管理職を目指すほうがよいというインセンティブが働くようになる。
こうして管理職になることのインセンティブを多くつけて、ヒラ社員に留まることのメリットを削っていく方向へ向かうのが、働き方改革の必然的な趨勢になっていくと思います。だから「働き方改革」とは、労働者の顔をした資本家のスローガンだと、私は見ています。
残業は悪だ、という声が高まれば高まるほど労働資源の選択と集中を進める政策に支持を与えることになる。もちろん、無駄な残業なんてしないほうがいいに決まっている。しかし結果としては、多数派の労働者の賃金上昇率を低く抑える政策を正当化する声に繋がってしまっているのが現状ですね。
賃金上昇率の「操作」疑惑も、厚労省の焦りが見え隠れしているように思うのですよね。自分たちが掲げる旗標が自分たち自身の政策目標の足をひっぱりかねないことに、中の人たちも気づいていないわけはないでしょう。
女性活躍推進が是非とも必要とされているのも、見も蓋もない話をすれば、働き方改革の「成果」によって非管理職労働者の実質賃金上昇率が抑制されることに対する保全策という見方もできる。シングル労働者の保全策は子育て支援政策との兼ね合いもあってどうしても優先順位が低くなりがち。
しかし見方を変えると、シングル労働者の賃金上昇を求める声こそ、真に労働者全体の利益を最大化することに貢献するわけです。世帯収入が個人の労働成果を覆い隠してしまう共働き世帯の声はともすればヒラ社員の賃金上昇率を抑えようとする経営者の利害と一体化してしまう。だからシングルの声が重要。
大事なことは、働き方改革は基本給の上昇とセットでなければ真に労働者の幸福最大化には繋がらない、ということを主張し続けることです。基本給上昇を等閑視した残業悪論は百害あって一利なしと、私は考えます。
いずれにせよ、「働き方改革」は労働力の選択と集中のための方便です。早く帰るためにヒラ労働者の労働密度は極限まで高められ、結果として手に入れるのはより強度の疲労感と割安な賃金です。
今まで知らなかった一面を見る機会が増え、新鮮に感じると同時に、少し切なさもある。
人間とは、人と人の関係性の中に本質があるのだな、と改めて感じさせられる。
これまで家族の中では決して話題になることもなかった、半ばタブー視されていたような話題も出るようになり、いい意味で、新しい関係性が生まれている。いわば、結婚の効用か。しかしまだまだ変化してゆくのだろう。
家族のことについて、私は殆ど何も知らないのだなあ、と気づく機会が増える。家族が増えたことで、自分の家族についての理解が深まっていく。こういうことはありきたりの経験なのだろうか。他人の家族についてはあまり関心がないので、それは知らない。
母について、私が知っている母とは少し違う一面が、相方も交えた三者会談の中で明らかになったりする。逆に言えば、母も私についてはそれなりに知っていても、私と他人との関係性の上でしか明らかにならないこともあるのだろう、と思われる。
誰かを理解する、というのは1対1では難しい。知りたいと思うその人が、自分に対してホンネで向き合っているとは限らないし、仲がいい同士でも、その人にしか向けない側面というものを誰しも持っている。友人関係でもそれは同じだろう。よく、三角関係が拗れやすいのは、3人が3人ともいつも同じ面を見せているとは限らないからである。AさんとBさんとCさんがいて、AさんはBさんにしか見せない部分があり、BさんはCさんにしか見せない部分がある。それに段々と気づいてくると、3人のバランス感覚が崩れてくるのである。
家族関係についても同様で、その家に新しい人が入ってきて初めて明らかになる家族の側面、というものがあるらしい。そしてそれは、上手くいけば家族関係に新陳代謝を齎してくれるものでもあるのだろう。変化したバランスを取ることに失敗すると、嫁姑や兄弟同士の争いごとなどが生じてくるに違いない。
歳を取るだけでは、家族間の人間関係というものはそれほど大きく変わらないのかもしれない。むしろ、外部から新たな構成員を迎え入れることで、そこに変化が生じてくるものらしい。以前は漠然としていたのに、「家」というものを意識させられるようになる。
家、なんてものは、婚姻関係を通じてしか具体化しないのかもしれない。それまでは空気のようなものだが、結婚によって他者を迎え入れることを通じて、初めてそれが具体的なものとして意識されるようになる。そして、家族というものがどういうものなのかを知るのは、その時になってからなのかもしれない。
結婚をしないと家族が生じない、とは思わないが(所詮は婚姻関係は「制度」なのだし)、誰かを家族として迎え入れる、というのは決定的な機縁であるように思える。少なくとも、私の母について言えば、私が結婚したことで改めて「母」として、母を意識するようになったと思う。
母の自己犠牲的な性格はよくわかっているつもりだったけれども、その深いところの意味について、改めて思うところがある。世間的な意味での「親孝行」というものを私自身が信じてこれなかった理由も、今ならよくわかる。私は母に対して孝行をすることで、自分の生活の一部でも切り取ることを母がよく思わないことを胸の内でわかっていたからこそ、その自己犠牲的な響きを信じることができなかったのだ。母はそういう人なのだ。だから私はナルシストになるべくしてなっている。私が自由でなかったら、母も自由になれない。だから私には、自由でいる義務さえあるのかもしれない。
そういうことは、自分が親に何かを与えることを親孝行だとする向きには理解不可能な、というより親不孝者に限りなく近いのかもしれないが、私にとっては自然なことである。けれども、それがすべてだとも思えない。新しい家族が増えたことで、私なりのやり方以外の仕方で「孝行」しても、案外いいのかもしれないと思うようになったことも事実である。これは「感化」と呼べないこともない。
感化されてゆく部分と、変わらない部分と、両方が混じり合ってより複雑な色合いになっていけばいいと思う。私の生活には矛盾がいる。矛盾と葛藤こそ愛すべきものである。
ストックオプションの新規発行で、「行使の条件」として「業績条項」を付けたい、と。それで具体的な条件は「新株予約権割当契約」により定めるという。これは株主総会(公開会社では取締役会)でその「内容」を決定しているとは言えないので、登記事項となる「行使の条件(会社法第911条3項12号ハ)」としては認められないが、個々の予約権者との個別契約でそのような事項を定めることは差し支えない、というのが実務上の考え方となっている。
「行使の条件」は会社法第236条に定める「内容」には含まれていないが、これは必要的事項の列挙に過ぎず、行使の条件を定めた場合にはこれも新株予約権の「内容」となる(相澤哲ら編『論点解説 新・会社法』p.226.)。新株予約権の内容については法定の決議機関で定めなければならず(同法第238条2項、第240条1項)、新株予約権の行使条件に差を設けること自体は当然に違法というわけではないが、行使の条件も新株予約権の「内容」である以上、会社法238条5項の趣旨に基づき、一つの募集ごとに均等に定めなければならない。逆に言えば、募集ごとに均等に定めている限り、内容において差を設けることは認められる。例えば、従業員であることを条件に行使できる、とか、「ある者が発行済株式総数の20%以上を取得した場合にその者以外の新株予約権者が行使できる」とする条件も可能であるとされる(神田秀樹『会社法(第15版)』p.153、江頭憲治郎『株式会社法(第6版)』p.785.)。株主平等の原則は、新株予約権にも当然に適用されるわけではない。
ただし判例は、投資ファンドによる敵対的買収の際に、防衛目的で株主に対し新株予約権を無償発行した際に、行使の条件として、当該ファンドは行使できない旨を定めた事案につき、「株主平等の原則」の趣旨が及ぶと判示した事案もある(最判平成19・8・7民集61巻5号2215項、ただしこの事案においては会社の企業価値が買収により毀損される場合には、相当性を欠かない限り差別的取り扱いも許容されるとしている。)。
一方、内容の大枠については株主総会(公開会社においては取締役会)において決定する必要があるが、技術的・細目的事項については下位機関に委任することも可能であるとする見解があり、実務においてもそのようなやり方をしている例が見受けられる(荒井邦彦ら編著『新株予約権・種類株式の実務(第2次改訂版)』p.230.)。近時の判例では、株主総会で委任を受けて取締役会がストック・オプションの行使条件を定めた場合において、当該ストック・オプションの発行後にその行使条件を変更する取締役会決議は、明示の委任がない限り、細目的な変更を除き無効であり、また、非公開会社が株主総会決議で行使条件を定めた時は、その行使条件が重要な内容を構成している限りにおいて、当該行使条件に反したストック・オプションの行使は無効原因がある、と判示している(最判平成24・4・24民集66巻6号2908項。)。
重要な内容となる「行使の条件」を定めた場合にはこれを登記する必要が生じるが、細目の委任とはみなせない具体的な事項を個別の「割当契約」によって定めることは、会社法238条5項の趣旨に反し、また、新株予約権の「内容」となる事項を決議機関で決議しているとはみなせないので、認められない、というのが実務の考え方である。仮にこのような定め方をした場合には、当該事項は、発行会社と割当者との間に民法上の債権・債務関係を生じさせるに過ぎず、当該定めは登記事項にならず、第三者対抗要件を有しない、という考え方である。であるから、当然、当該事項の拘束力は債権的効力としてのみ有効である、ということになり、これに違反した行使があった場合には、民法上の債務不履行の責任を問われる形となると思われる。
業績連動型のオプションを付与する場合、個々の割当者ごとに異なる条件を付すインセンティブがあるのはむしろ自然なことであるようにも思えるが、何を新株予約権の「内容」とし、何が債権的合意で足りるのかを整理検討した上で、「内容」となるべき事項は新株予約権の募集事項に明確に落とし込むのが無難だろう、と思料する。
一般財団法人(公益財団法人も同様)においては、評議員、評議員会、理事、理事会及び監事、が必置機関となります(一般社団法人及び一般財団法人に関する法律(以下、「法」)第170条1項)。
会社に置き換えてみるとわかりやすいと思います。すなわち、「評議員会」は「株主総会」であり、「理事会」は「取締役会」なのです。取締役を選ぶのが株主総会であるように、理事を選ぶのは評議員会なのです(なんてわかりやすい)。
なので、理事会で「理事の解任」を決議することは法令上できない(法177条において準用する、同法第63条)。ただし、株主総会の招集権を取締役が持っているように(会社法第296条3項)、評議員会の招集権と議案提案権は理事が持っています(法第179条3項)。評議員会で議論される議案を理事会で決定し、評議員会に通知するという流れになるわけです。このニュースが伝えているのは、要するに「解任」の前段階の話なわけで、この時点では正式に解任されたわけではない。ちなみに理事を解任するためには条件が必要で、法176条では具体的にどんな場合に評議員会が理事を解任できるのかが列挙されています。
① 職務上の義務に反し、又は職務を怠ったとき。
② 心身の故障のため、職務の執行に支障があり、又はこれに堪えないとき。
この2パターンです。
具体的な「職務」の内容は、定款で定められることもあるでしょうし、別の内部規約のようなもので定めている場合もあるでしょう。
さて、ここで気がつくことがあります。「株主総会」や一般社団法人の「社員総会」においては、役員の解任を単純多数決で行えるのに対して、一般財団法人の評議員会においては、役員の解任をする際に以上に列挙した「理由」が必要になるわけです。つまり、「正当な理由なく多数決のみによって解任」したとするならば、法176条の趣旨に反して無効と判断される可能性もあるわけです。
だからこそ、評議員への「根回し」が重要になってくるわけですね。
カトリック教会の場合、日本において宗教法人法上の法人格を持つのは各「司教区」です。日本には計16の司教区と3つの大司教区があり、カトリック東京大司教区は3つある大司教区のうちの一つ。これら大司教区は複数の教区を束ねる「教会管区(Provincia ecclesiastica)」であると同時に、単独の教区(Dioecesis)でもあります。
つまり、カトリック東京大司教区の大司教(Archiepiscopus)は単独の司教区の司教であると同時に、東京管区の首都大司教(Metropolita)でもある。カトリック東京大司教区はバチカンを包括宗教団体とする被包括宗教法人です。ということは、その宗教法人法上の代表役員選任の手続きには原則として、カトリックの宗務規則(カノン法)と東京大司教区自体の個別規則を参照する必要が生じます。
ちなみに、全世界共通のカトリック教会法典において司教の着座(就任)を規定した部分は以下のような条文になっている。
「第382条
司教に任命された者は、(中略)……同任命書を受けて後2か月以内に、教会法の定めるところにより自己の教区に就任しなければならない。
司教は、教会法上の就任に当たり、当該教区において文書を作成すべき教区事務局長の同席のもとに、自ら、又は代理人を介して顧問団に使徒座任命書を提示することによって着座を行う。」
(日本カトリック司教協議会教会行政法制委員会訳『カトリック新教会法典』有斐閣、p.209からの抜粋。)
「任命」から、教区への「就任」までには実際にはタイムラグがある。
代表役員の就任日は司教区への「着座」を認められた日です。上記に挙げたカトリック教会法の第382条にあるように、着座には教区事務局長が立ち会いますので、就任したことの証明は教区事務局長名義で差し支えないと思います。
この法人の場合、代表役員は司教区の教区長をもって充てるとされており、選任方法としては「充当制」を採用しているとみられる。充当制における代表役員選任過程においては、母体宗教団体における選任手続と代表役員選任の手続きが一体となっているので、バチカンが新大司教を任命した時点で、旧代表役員は資格喪失により退任する(代表役員のポストは一つであるため)と一応は理論構成することができるが、前代表役員が「辞任届」を出している場合、本人の意思により辞任したとみなすことも可能だろうか?
なぜこんなことを問題にするのかといえば、宗教法人の役員の間で仮に争いがあった場合、本人の意思がどのようなものであるかを探究することは重要な場合があるからです(先日の富岡八幡宮の事件を思い起こしてください)。しかしそもそも、充当制を採用している場合において、代表役員としての地位のみを退く、ということは可能なのか。一つの見方としては、代表役員と法人との関係については準委任の関係に立つので、いつでも辞任することができるという解釈が成り立つ(民法651条)。一方で、宗教法人の規定に「代表役員は司教の職にあるものをもって充てる」というような規定がある場合は、司教の職にある限りは代表役員としての地位を辞めることができないと解すことができそうである。そうすると、仮に前任者がバチカンに対して「辞任届」を出しているとしても、それがバチカンによって受理され、後任者が任命されるまでは代表役員の辞任届は効力を有しないとみることもできる。このような考え方をすれば、カトリック東京大司教区の大司教は代表役員を資格喪失により(すなわち後任者の選任により)「退任」することはできても、自ら「辞任」することはできない、という考え方が成り立つ。
最も、これは宗教法人法上の役員選任の話であり、実体的には、前任者の大司教はバチカンに対して辞任届を出しているはずである。当人の意思に重点を置くならば「辞任」という表現が正しいのだろうし、法的理論構成の厳密さを追求するなら「退任」のほうが収まりが良い。この辺りは意見が割れるところだろうと思う。教皇庁の任命書があるなら新代表者についての証明には真正担保が十分にとれているので、当人の意思の問題はクリアできるとするなら、「退任」構成のほうが無難かもしれない。