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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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彼氏いそうな若い女の子や専業主婦のお姉さんが難しいのは、彼女たちにいかにして「主体的に考えて、動いてもらう」ことを伝えることができるだろうか、という問題に直面するから。



平日の昼間に役所で相手する人々というのは往々にしてこういう方々なわけですけども、役所というのは良くも悪くも誰かに動いてもらわねば物が進まない組織なので、一番そういうことが苦手な人々にそういうことをお願いしなければならないという難しさがあると思うんですよね。



この前もこんなこと書いたけど、家族連れでファミレスに入ると必ずと言っていいほどウェイターに注文する役割はお父さんに割り振られますね。他人に物申す時もお父さんが前に出てきます。で、そういう「お父さん」不在の場面で彼女たちが自分たちの問題に対してどこまで主体的になれるのか。



「休日の男」と「平日昼間の女」という問題は好対照を示していて根深いものがある。人間の美学は容易に変更不可能だから「何が正義か」という問題以前の話でもある。意識の持ちよう、って本当に見えないところで法社会の在り方を規定していると感じる。



『終物語』で忍野扇が言う決め台詞、「私は何も知りませんよ、あなたが知っているんです」という態度は民事行政の体質としてあると思う。というか、それがすべてだとも言える。これはこの前の話でも指摘した通り。これが一番「平日昼間の女」に伝わりにくいことの本質。



「マイナンバー」に対してはそういう意味で、主体的に動く、ことの面倒くささから逃れられることを期待する向きもあるのだろうと思う。国民総背番号だろうがなんだろうが、「私は何も知りませんよ、あなたが知っているんです」と言われるよりはマシだろうと。



けれども、この「主体性の呪縛」からは簡単に逃れられないと思います。番号が振られればそれを今度は「自分で管理」しなければならなくなりますし、そもそも情報公開と保護に関する諸法令も「自分の情報を自分でコントロールする」ことも私人の「権利」に含めている。



徴税権力や警察権力のように自ら進んで動く行政体にとってはこうした管理技術は効率化に資するところがあるのかもしれない。しかし、自分のことは自分でなんとかしなければいけない、という要素の強い領域ではかえってマイナンバーを自ら管理することの負担感がより強く感じられるのではないか。




……みたいなことを考えていくと、ちょっとこれはもう少しじっくり観察しつつ、考察を深めていきたいテーマであるように思えてくる。「情報管理技術と『主体的市民』の間の相克――マイナンバー制度を通して見る民事行政の性格と限界」みたいな。



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美人ってよほど精神力がないと自分の内面を深める、悪く言えば、「根暗」な方向に成長できないんだな、って思うことが多々ある。そういう意味では、己の美しさに打ち克つことは醜さと対峙することより難しいのかもしれない。



モデル・哲学者なんて聞いたことがない。容姿が美しい、つまりその社会・文化の中で理想とされる均整美に近い容姿を備えている人ほど哲学をしにくい環境に晒されることが要因なのだろうか。



あるいは、「金髪女」とか「巨乳」に対するような「美人」に対するステレオタイプが、当人が内面を深化させる傾向を削いでしまうのかもしれない。貴方は既に恵まれたものを持っているのだから、深刻になる必要ないでしょう?というような無言の圧力とか。



そうまでして根暗で深刻な人になる必要があるのか、といえばたぶんない。でも哲学者とアイドルの対話とか見てると、ああ罪作りな連中だな、と思うわけよ。別にどちらを馬鹿にしてるわけではないですよ、念のため。




生まれ落ちた時からの宿命なんてものは他人と交わることでしか顕在化しない。誰とも出会わなければ自分が「孤独」であることにすら気づかないでしょう。



世の美男・美女は完全密室の中で育てるべきだと思いますね。彼らが世にでて、自分の美しさに気づく前に、哲学者にしてしまうのだ。



そもそも容姿における美と精神性を両立させることの難しさこそが多くの無辜の民を死への欲望から救っているんだ。



だから密室において培養された美男・美女の哲学者なんていう人外が世に出てはならない、というのもそれは道理だ。だからこそそうしたプロジェクトを成人してから幼児退行して為し遂げようとする「メンヘラ」が後を絶たない。



属性過多なんだよな。欲張りすぎると最悪死ぬってことを知ってか知らずか、そういう精神生活送っている人を見ると見るだけで疲労感が溜まる。でもその疲労感の正体というのが自分には到底耐えられそうにない矛盾を犯していることに対する嫉妬や憧憬だったりしてな。



某政治団体の「ルッキズム」が批判されているらしいけども、「ルッキズム」という言葉の中には「凄惨な美」も含まれるのだろうか。なんとも頼りない語彙だ。




人工知能が会計士の仕事を奪う、という話を聞いたとき、おいおい、と思ったけどね。会計士の役割は計算だけじゃないっつう。歩く法律家が弁護士としての役割を果たせるのか、というとそれも違うだろう。「公証」という機能・役割をまったく無視した議論だなあ、とは思ったけどね。



だいたい、正しい知識だとか、唯一の真実なんてものは誰にもわからないんだ、というのが前提としてあって、だからこそ専門家が必要とされ、信頼されているわけですよ。信頼とか信用とか、そういうものは果たして人工知能が担えるものなのか、というのは極めて社会学的なテーマですよ。



つい最近も、会計検査院の指摘で税金の「無駄遣い」がこれだけあった、と、ご丁寧にもニュースで報道されていたけども、じゃあ、その無駄遣い、って何?何が無駄で何が無駄でないのかを決める基準は?という問題になると途端に詰めが甘くなる。



自分の財布の中身を数えるようには、大きなお金の「計算」はできないのですよ。物の見方、考え方、というのは無数にあって、規模の大きな計算をする時にはそうした「カオス」な要素が多分に膨れ上がってくる。だから、唯一正しい正解、なんてものはない。



正しい計算をする機械が必要だから会計士がいるんじゃない。正しい、と言ってくれる人が必要だから士業が成り立つんですよ。法律家というのは歩く六法全書ではないわけで、人工知能厨はその点を過小評価しているきらいがあると思うんですね。



人工知能が人類の脅威になる、という発想にどうもなじめない。優れた人工知能が人間の能力を凌駕する、という考え方そのものに、なにか根本的な発想の貧困があるのではないかと思う。だから、どうも現在の人工知能論において社会学的分析がおおっぴらに論じられる機会が少ないように思うのは、何か物足りなさを個人的には感じているところです。ちゃんとした研究はないわけではないだろうに。
うちの母親は猫はかわいいけども兎はかわいいと思わない、という。僕も基本的には同意見である。生きた兎ほど薄気味悪いものはない。



目が横についているし、常にかっと見開いている。身体はなんだかごわごわしているし、何より落ち着きがない。数える単位が「匹」ではなく「羽」というのも異様である。あらゆる点から見てかわいくはない。



ハムスターなんかはちょっとかわいいかもしれない。しかしどうもあの落ち着きのなさが不安になる。鳥にせよ、なんにせよ、あんまりそわそわしている動物はかわいくないのではないか。



かわいい動物、って、そんなにいないと思うのよ。実は。みんな、かわいいと思ってるだけなんだよ。この動物はかわいい、という固定観念を脇に置けば大概の動物は不気味だよ。




歳をとるにつれて、「それなりの恰好」をしなければならない、という社会的圧力は強まる。女性のほうがおそらくこの圧力を強く受けるのだろうが、男性に対しても無視できない力を発揮する。この圧力が男をおっさんにし、女をおばさんにしてゆくのである。



歳に応じた格好をしようと思うと出費は増える。身だしなみに対して支払うだけの収入を得ていかなければ甲斐性のある男にはなれない。年功賃金とは甲斐性を保つためのシステムでもある。男性が正統的な「おっさん」に洗練されてゆくための地盤でもある。



自分の個人的ファッション感覚、というのは大事にしていきたいですよ。もちろん。しかし、それだけだと自分の立ち位置がどんどん狭められていく感覚に対抗しつづけていかなければならない。それってけっこう疲れますよ。私は私、って自分に言い続けるのって疲れるでしょ。



僕は疲れるのが嫌なんです。自分が本当に精力を注ぎたい場面以外で疲れるなんて不毛な疲労でしかない。社会的な同調圧力、というものが仮にあるとして、僕はそういうものにあえて逆らおうという気力がわかないんですよ。そんなつまらないことにエネルギーを使いたくない、と思ってしまう。



つまりそれは、僕はあえて同調圧力なるものに対して抵抗しなければ社会的にそれなりの位置づけを与えられる、という恵まれた、つまらない身分である、ことを公言していることになるわけだが、そのことについては僕なりに考える所はあって(その話はまた今度にしましよう)。
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