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- 04/28 [PR]
- 05/08 アロハとかりゆし~ローカリズムとナショナリズムの交差点~
- 03/08 精神的なおしゃぶり
- 12/30 闘争からの逃走――「逃げ恥」と大衆的ロゴスについて――
- 08/22 オーダーメイドな知性と公共性
- 08/22 私と貧困とパッションの欠如体
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内閣府のホームページに「かりゆしウェアとアロハシャツの違い」という項目があるけども、素材についての言及は特にない。「違い」として言及されているのは、語源・起源・絵柄の三点についてである。http://www8.cao.go.jp/okinawa/kariyushi/tigai.html …
かりゆしとアロハは歴史的起源が異なるので、違うものだという説明は有効だろう。けれども、仮にハワイが日本の領土になっていたとしたら、アロハもかりゆしも同じもの、として扱われたのではないだろうか。これは非常に微妙なポイントである。
かりゆしウェアを、伝統的な日本の衣装だとするいわば「公式の」言説に対して、いや、アロハと同じものでしょう、というと、反感を抱かれる。つまりこれは政治的な話で、かりゆしウェアを公務員が着用することには沖縄に対する微妙な政治的配慮がないとは言えない。
ただし、例えば藤沢市や茅ヶ崎市など、神奈川県の湘南地域の自治体では夏場に職員が「公式のアロハシャツ」を着ている。これはかりゆしではないが、公式に認められたアロハシャツなのである。つまり、この文脈でいえば、かりゆしは公式であり、アロハはそうではない、とは一概には言えないことになる。
ちなみに官庁によっては、アロハの着用には否定的だけれども、かりゆしならば積極的にOKというところもある。そういう官庁では、仮に藤沢市や茅ヶ崎市の「公式のアロハ」であっても、アロハである以上、着用の是非は否定的に解されざるを得ないだろう。
一般的に、アロハよりもかりゆしのほうが絵柄が大人しく、従ってより公の場面での着用に適しているとされる。先ほどの内閣府のホームページからもそのような観念が窺えるが、大人しいアロハ、派手なかりゆし、はどうなるのか。「常識に委ねる」というのが現実的な対応であろう。
つまり色彩やデザインの許容幅については各個人の「常識」に委ねつつも、政府としては、アロハではなく、かりゆしを、クールビズとして推薦しているという話になる。その違いとして公式に強調されているのは、「起源」であり、「絵柄」については、あくまで非公式な言及に留まっている。
ちなみに私は「ハイビスカス柄のかりゆし」を持っているのですが、これなんかはアロハに限りなく近い、というよりも、これをアロハと区別する要素は本質的には何もないと言える。ちなみに沖縄の国際通りなんかには「かりゆし・アロハ専門店」なんかもあります。横断的なジャンルとして認識されている。
かりゆし的な何か、アロハ的な何か、がそれをかりゆしにしているのであり、アロハにしているのである。しかし、アロハを着ること以上にかりゆしを着ることには政治性が付きまとっている。本土の公務員がかりゆしを着ることと沖縄の公務員がかりゆしを着ることの間には異なる政治的言語が含まれている。
沖縄の公務員がかりゆしを着用することには、沖縄のリージョナリズムの主張が含まれているのに対し、本土の公務員(殊に国家公務員)がかりゆしを着るということには、「日本の一部としての沖縄」を尊重する、というメッセージが暗に含まれている。リージョナリズムとナショナリズムのせめぎあい。
翻って考えてみるなら、藤沢市や茅ヶ崎のアロハは、いわば「湘南のかりゆし」なのであって、湘南の公式的なリージョナリズムを示しているとも言える。けれどそこには、沖縄のかりゆしには見られたナショナリズムの包摂はない。湘南のかりゆしは湘南のアロハに留まらざるを得ないのである。
それが、かりゆしを「日本の伝統衣装」という意味である。アロハは、それがどれだけ地域のリージョナリズムに根差していようと、アロハである以上、ナショナリズムには包摂され得ない。しかし沖縄のかりゆしは、ナショナリズムの表象たり得るのである。かりゆしをアロハから決定的に異化するもの。
かりゆしはリージョナリズムとナショナリズムの葛藤の中にある。それは、政治的妥協点とも言えるし、緩衝地帯であるとも言える。だからこそ、かりゆしは特権的なウェアなのである。リージョナリズムとナショナリズムという和解し難い理念の間、親愛の印として、また、対抗意識の発露としての。
かりゆしとアロハは歴史的起源が異なるので、違うものだという説明は有効だろう。けれども、仮にハワイが日本の領土になっていたとしたら、アロハもかりゆしも同じもの、として扱われたのではないだろうか。これは非常に微妙なポイントである。
かりゆしウェアを、伝統的な日本の衣装だとするいわば「公式の」言説に対して、いや、アロハと同じものでしょう、というと、反感を抱かれる。つまりこれは政治的な話で、かりゆしウェアを公務員が着用することには沖縄に対する微妙な政治的配慮がないとは言えない。
ただし、例えば藤沢市や茅ヶ崎市など、神奈川県の湘南地域の自治体では夏場に職員が「公式のアロハシャツ」を着ている。これはかりゆしではないが、公式に認められたアロハシャツなのである。つまり、この文脈でいえば、かりゆしは公式であり、アロハはそうではない、とは一概には言えないことになる。
ちなみに官庁によっては、アロハの着用には否定的だけれども、かりゆしならば積極的にOKというところもある。そういう官庁では、仮に藤沢市や茅ヶ崎市の「公式のアロハ」であっても、アロハである以上、着用の是非は否定的に解されざるを得ないだろう。
一般的に、アロハよりもかりゆしのほうが絵柄が大人しく、従ってより公の場面での着用に適しているとされる。先ほどの内閣府のホームページからもそのような観念が窺えるが、大人しいアロハ、派手なかりゆし、はどうなるのか。「常識に委ねる」というのが現実的な対応であろう。
つまり色彩やデザインの許容幅については各個人の「常識」に委ねつつも、政府としては、アロハではなく、かりゆしを、クールビズとして推薦しているという話になる。その違いとして公式に強調されているのは、「起源」であり、「絵柄」については、あくまで非公式な言及に留まっている。
ちなみに私は「ハイビスカス柄のかりゆし」を持っているのですが、これなんかはアロハに限りなく近い、というよりも、これをアロハと区別する要素は本質的には何もないと言える。ちなみに沖縄の国際通りなんかには「かりゆし・アロハ専門店」なんかもあります。横断的なジャンルとして認識されている。
かりゆし的な何か、アロハ的な何か、がそれをかりゆしにしているのであり、アロハにしているのである。しかし、アロハを着ること以上にかりゆしを着ることには政治性が付きまとっている。本土の公務員がかりゆしを着ることと沖縄の公務員がかりゆしを着ることの間には異なる政治的言語が含まれている。
沖縄の公務員がかりゆしを着用することには、沖縄のリージョナリズムの主張が含まれているのに対し、本土の公務員(殊に国家公務員)がかりゆしを着るということには、「日本の一部としての沖縄」を尊重する、というメッセージが暗に含まれている。リージョナリズムとナショナリズムのせめぎあい。
翻って考えてみるなら、藤沢市や茅ヶ崎のアロハは、いわば「湘南のかりゆし」なのであって、湘南の公式的なリージョナリズムを示しているとも言える。けれどそこには、沖縄のかりゆしには見られたナショナリズムの包摂はない。湘南のかりゆしは湘南のアロハに留まらざるを得ないのである。
それが、かりゆしを「日本の伝統衣装」という意味である。アロハは、それがどれだけ地域のリージョナリズムに根差していようと、アロハである以上、ナショナリズムには包摂され得ない。しかし沖縄のかりゆしは、ナショナリズムの表象たり得るのである。かりゆしをアロハから決定的に異化するもの。
かりゆしはリージョナリズムとナショナリズムの葛藤の中にある。それは、政治的妥協点とも言えるし、緩衝地帯であるとも言える。だからこそ、かりゆしは特権的なウェアなのである。リージョナリズムとナショナリズムという和解し難い理念の間、親愛の印として、また、対抗意識の発露としての。
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本一冊あれば時間をつぶせる人は幸福だと、人はいう。
あえて言おう。それは欺瞞だと。
読書とか座学って、精神的なおしゃぶりだと思うんですよね。旨いもん食わなくても、楽しい玩具がなくても、お金を使わなくても、目の前のおしゃぶりを只管しゃぶっていればいくらでも時間をつぶせる、という意味で。
おしゃぶりで満足できるから、退行するんだわ。退行しながら、歳を取るのだと思う。精神的な豊かさ、という貧しさを身に纏っていく。
精神的な豊かさとは何か。そんなものはおしゃぶりの味がするだけではないか、と思うことがある。口の中に入れたまま何度も噛み締めているうちに、甘露を嘗めているような気分になる。咀嚼し、消化する営みの、無限の先送りが、精神的おしゃぶりなのではないか。
おしゃぶりとは、咀嚼し消化する営みの無限の遅延である。味わうことの持続性とは、消化することの拒否に他ならないから。おしゃぶりが退行現象とされるのはこの生命に対する拙い抗いの故なのではないか。
おしゃぶりの精神性とは人為的であることを免れない。我々がおしゃぶりをする時、それは消化という自然に抗い、つかの間の味わいを持続させようという人為的な、ある意味で涜神的な試みをしていることになるのだろう。
そのような涜神的な営みを称揚すべきではないのだ。私のようなモラリストは、精神的な豊かさなるものを恰もイノセンスのように祀り上げることに耐えられない。なんて不徳な輩だろうか。
「精神的な豊かさ」というのは貨幣経済に取り込まれているんですよね。市場で流通しているからこそ、豊かさという指標を精神に結びつけるんです。自らは市場の外にあると僭称しながら、その実、市場から自由ではない、むしろ精神の自由を貨幣価値に置き換える働きに手を貸してしまっている言説。
おしゃぶりの崇高さ、とは奇妙なものだ。その時間が崇高であるという価値意識のうちには、飲みこみ、消化することへの嫌悪が含まれているのだが、飲みこみ、消化することを予定しない、味わいなどというものがあるだろうか。だからこそ、論理的におしゃぶりは「遅延」でしかあり得ない。
その論理的に遅延でしかあり得ないおしゃぶりを我々は崇高な営みと見做している。これこそ欺瞞だと思う。
本一冊あれば時間がつぶせることは幸福、というのは欺瞞だ、というのはそういう意味です。
あえて言おう。それは欺瞞だと。
読書とか座学って、精神的なおしゃぶりだと思うんですよね。旨いもん食わなくても、楽しい玩具がなくても、お金を使わなくても、目の前のおしゃぶりを只管しゃぶっていればいくらでも時間をつぶせる、という意味で。
おしゃぶりで満足できるから、退行するんだわ。退行しながら、歳を取るのだと思う。精神的な豊かさ、という貧しさを身に纏っていく。
精神的な豊かさとは何か。そんなものはおしゃぶりの味がするだけではないか、と思うことがある。口の中に入れたまま何度も噛み締めているうちに、甘露を嘗めているような気分になる。咀嚼し、消化する営みの、無限の先送りが、精神的おしゃぶりなのではないか。
おしゃぶりとは、咀嚼し消化する営みの無限の遅延である。味わうことの持続性とは、消化することの拒否に他ならないから。おしゃぶりが退行現象とされるのはこの生命に対する拙い抗いの故なのではないか。
おしゃぶりの精神性とは人為的であることを免れない。我々がおしゃぶりをする時、それは消化という自然に抗い、つかの間の味わいを持続させようという人為的な、ある意味で涜神的な試みをしていることになるのだろう。
そのような涜神的な営みを称揚すべきではないのだ。私のようなモラリストは、精神的な豊かさなるものを恰もイノセンスのように祀り上げることに耐えられない。なんて不徳な輩だろうか。
「精神的な豊かさ」というのは貨幣経済に取り込まれているんですよね。市場で流通しているからこそ、豊かさという指標を精神に結びつけるんです。自らは市場の外にあると僭称しながら、その実、市場から自由ではない、むしろ精神の自由を貨幣価値に置き換える働きに手を貸してしまっている言説。
おしゃぶりの崇高さ、とは奇妙なものだ。その時間が崇高であるという価値意識のうちには、飲みこみ、消化することへの嫌悪が含まれているのだが、飲みこみ、消化することを予定しない、味わいなどというものがあるだろうか。だからこそ、論理的におしゃぶりは「遅延」でしかあり得ない。
その論理的に遅延でしかあり得ないおしゃぶりを我々は崇高な営みと見做している。これこそ欺瞞だと思う。
本一冊あれば時間がつぶせることは幸福、というのは欺瞞だ、というのはそういう意味です。
百合さんの言葉が一番印象的だったかな。自分に呪いをかけないで。それな、って思った。
みくりさんが理想的な嫁じゃない、ってところが、ガッキー神話に対する不意討ちにもなっていたし、そこが好感持てる。小賢しいとは思わない、なんていう津崎さんが最後にしっくりくる。保守的な価値観を柔軟に落とし込んでいく手際とか見極めが、アラサー世代の感覚を掴むのだろう。
ゴールを安易に設けない姿勢は、それだけ人と人との結びつきのあり方が混迷の時代を迎えている証左でもあるのだろう。しかし、それはまったく答えを出さない相対主義とも違う。それは、まさしく「二人で二人を乗り越えていく」一つの実験なのだろう。
世代感覚と時代性をうまく掴んでいたドラマだと思うが、同時に極めて言語的な作品だったと思う。いわく、「小賢しい」成分が多少多目に含まれている。その小賢しさが、ある意味でリアルな大衆性を帯びている現状というのは、私が居心地がいいと思える世界ではない。
面白いドラマだったと思う。けれども私はそこに、大文字のテーマ性を見出だしたくはない。ロゴスに訴える大衆ドラマ作品のテーマ性を掘り下げるということは大衆的なロゴスを認めるということ。卑近な世界をロゴスで埋める営みに、私は参画したくない。
森山みくり的な小賢しさが津崎というロゴスによって包容される世界に大衆性を与えるのは無謀ではないか。逃げ恥にはそういう不健康さがある。恋ダンスの愛らしさは、逃げ恥が抱える過剰なロゴスの裏返しなんですよね。作品本体が過剰な言語性を抱えているからこそ、非言語的な恋ダンスが際立つ。
だから私は、津崎さんの「小賢しいとは思わない」という台詞にホッとした。大衆性を守ったという意味で、あの台詞は救いである。小賢しい女がロゴスな男と向き合うという過剰に言語的な物語が、小賢しい女が小賢しさから束の間自由になるという大衆性(情動)の物語にうまく逃げおおせた瞬間。
私はそれだけ大衆性を愛してやまない。ベタで王道であることを愛してやまない。「好きの搾取」など問題ではないとすら思っている。物語にスパイスを添えるロゴスは歓迎できるが、物語がロゴスそのものであることには耐えられない。物語とは、大衆的であるべきものだ。
だから私は「好きの搾取」を問題にするみくりではなく、「小賢しいとは思わない」という津崎の言葉で物語が締められたことに安堵するのだ。それこそが、逃げ恥に散りばめられた過剰なロゴス、すなわち蘊蓄を活かし、腐らせないために必要なことだったのだと思う。
一方で、本来大衆的な安堵感の対極にあるべきロゴスの息苦しさがムズキュン的要素に紛れて現代生活のトレンドに取り込まれていく世界というのは「痛々しい」と思える。日常で使われるネット用語やニュース番組で流れるTwitterのつぶやきと似た感じの痛々しさがある。
私はそういう痛々しさを不健康さと勝手に言っている。本来インテリの戯言であるようなロゴス中心的な言説が大衆性を獲得する現象は近年特に見てとれるが、逃げ恥現象もそのうちの一つに数えられるのではないか。日本死ね、が流行語大賞に選ばれる文脈と相似性があるのだ。
日本死ね、の主張の中味には共感できるがそれが流行語大賞に選ばれることに不快感を抱くのと似たような次元で、ドラマとしての逃げ恥を評価し、それが受け入れられ、分析される世界に嫌気がさす。無節操なロゴスの氾濫は敵である。害悪である。
みくりさんが理想的な嫁じゃない、ってところが、ガッキー神話に対する不意討ちにもなっていたし、そこが好感持てる。小賢しいとは思わない、なんていう津崎さんが最後にしっくりくる。保守的な価値観を柔軟に落とし込んでいく手際とか見極めが、アラサー世代の感覚を掴むのだろう。
ゴールを安易に設けない姿勢は、それだけ人と人との結びつきのあり方が混迷の時代を迎えている証左でもあるのだろう。しかし、それはまったく答えを出さない相対主義とも違う。それは、まさしく「二人で二人を乗り越えていく」一つの実験なのだろう。
世代感覚と時代性をうまく掴んでいたドラマだと思うが、同時に極めて言語的な作品だったと思う。いわく、「小賢しい」成分が多少多目に含まれている。その小賢しさが、ある意味でリアルな大衆性を帯びている現状というのは、私が居心地がいいと思える世界ではない。
面白いドラマだったと思う。けれども私はそこに、大文字のテーマ性を見出だしたくはない。ロゴスに訴える大衆ドラマ作品のテーマ性を掘り下げるということは大衆的なロゴスを認めるということ。卑近な世界をロゴスで埋める営みに、私は参画したくない。
森山みくり的な小賢しさが津崎というロゴスによって包容される世界に大衆性を与えるのは無謀ではないか。逃げ恥にはそういう不健康さがある。恋ダンスの愛らしさは、逃げ恥が抱える過剰なロゴスの裏返しなんですよね。作品本体が過剰な言語性を抱えているからこそ、非言語的な恋ダンスが際立つ。
だから私は、津崎さんの「小賢しいとは思わない」という台詞にホッとした。大衆性を守ったという意味で、あの台詞は救いである。小賢しい女がロゴスな男と向き合うという過剰に言語的な物語が、小賢しい女が小賢しさから束の間自由になるという大衆性(情動)の物語にうまく逃げおおせた瞬間。
私はそれだけ大衆性を愛してやまない。ベタで王道であることを愛してやまない。「好きの搾取」など問題ではないとすら思っている。物語にスパイスを添えるロゴスは歓迎できるが、物語がロゴスそのものであることには耐えられない。物語とは、大衆的であるべきものだ。
だから私は「好きの搾取」を問題にするみくりではなく、「小賢しいとは思わない」という津崎の言葉で物語が締められたことに安堵するのだ。それこそが、逃げ恥に散りばめられた過剰なロゴス、すなわち蘊蓄を活かし、腐らせないために必要なことだったのだと思う。
一方で、本来大衆的な安堵感の対極にあるべきロゴスの息苦しさがムズキュン的要素に紛れて現代生活のトレンドに取り込まれていく世界というのは「痛々しい」と思える。日常で使われるネット用語やニュース番組で流れるTwitterのつぶやきと似た感じの痛々しさがある。
私はそういう痛々しさを不健康さと勝手に言っている。本来インテリの戯言であるようなロゴス中心的な言説が大衆性を獲得する現象は近年特に見てとれるが、逃げ恥現象もそのうちの一つに数えられるのではないか。日本死ね、が流行語大賞に選ばれる文脈と相似性があるのだ。
日本死ね、の主張の中味には共感できるがそれが流行語大賞に選ばれることに不快感を抱くのと似たような次元で、ドラマとしての逃げ恥を評価し、それが受け入れられ、分析される世界に嫌気がさす。無節操なロゴスの氾濫は敵である。害悪である。
前にも言ったかもしれないが、役人というのは基本的に素人集団である。専門分野に特化した人というのはいない、ということになっているし、そういうシステムで回っている。
なぜ人は「専門知」を求めるのだろう、と考える時、それは他の誰でもない、あの人、この人の役に立ちたい、という思いがあるからだろう。要するに「オーダーメイド」である。オーダーメイドができる人のことを「専門家」というのではないだろうか。だとしたら役人ほどその定義から遠いものはないのだ。
行政マンに求められる「プロ意識」ってなんだろうな、ってたぶん永遠の問いじゃないだろうか。どこまで行っても妥協しかあり得ない、という意味において。もし「プロ」になりたいのなら役人になるべきではない、と口をすっぱくして言っておく。
「上から物申す素人」というのは気に食わないだろう。官僚組織に対する嫌悪感の正体はだいたいこんなところにある。役人生活というのは基本的に妥協の連続であるし、妥協と冗長と段取り臭さに耐えられる人だけがこの世界に向いていると言える。
役人の世界では「専門家」になればなるほど出世コースから外れていくわけです。そして出世を諦めるとどうなるかというと、みんな変人になっていくんですね。悪い意味でオタク化してしまう。
言い方を変えると、「専門は外注できる」んですよね。手前で専門家を養成しようという意志がないのは、元来お役所というのは専門知を外部に求めることで目の前のニーズを満たしてきたから、ということも言えるのだろうし、そこには専門性に対する「軽蔑」も入り混じっているのではないか。
専門知に対するある種の軽蔑は、同じ職務に長く就かせないという慣業と密接に関係しているのだろう。同じ部署にずっといて「専門化」していく職員を同僚は軽蔑する。それが専門知そのものに対するそれへと転化してくのだろう。
専門家はオーダーメイドに傾きやすい。知識がある故にオーダーメイドな期待に応えてしまいたくなるのが人間の心情というもの。しかしそれは公平・公正の理念と鋭く緊張を孕む。そこに危うさと卑俗さを重ね合わせる時、それが軽蔑へと繋がる。役人が専門知を期待された時に起こす生理的反応の起源。
もっといえば、知識の相対的な量と質がプロと素人を分かつのではない。専門性に向き合う態度がそれを分かつのだと言える。このことの重大な意味が、多くの人にあまり意識されていないと感じる。
あらゆるものが外注できる時代に、外注するという態度の根幹にある専門性に対する期待と無知を炙りだすのは、素人の役割なんじゃないかと、最近思うようになってきました。
私は現場ですごく脱構築的な試行錯誤をしてるんだと思う。たぶん。
なぜ人は「専門知」を求めるのだろう、と考える時、それは他の誰でもない、あの人、この人の役に立ちたい、という思いがあるからだろう。要するに「オーダーメイド」である。オーダーメイドができる人のことを「専門家」というのではないだろうか。だとしたら役人ほどその定義から遠いものはないのだ。
行政マンに求められる「プロ意識」ってなんだろうな、ってたぶん永遠の問いじゃないだろうか。どこまで行っても妥協しかあり得ない、という意味において。もし「プロ」になりたいのなら役人になるべきではない、と口をすっぱくして言っておく。
「上から物申す素人」というのは気に食わないだろう。官僚組織に対する嫌悪感の正体はだいたいこんなところにある。役人生活というのは基本的に妥協の連続であるし、妥協と冗長と段取り臭さに耐えられる人だけがこの世界に向いていると言える。
役人の世界では「専門家」になればなるほど出世コースから外れていくわけです。そして出世を諦めるとどうなるかというと、みんな変人になっていくんですね。悪い意味でオタク化してしまう。
言い方を変えると、「専門は外注できる」んですよね。手前で専門家を養成しようという意志がないのは、元来お役所というのは専門知を外部に求めることで目の前のニーズを満たしてきたから、ということも言えるのだろうし、そこには専門性に対する「軽蔑」も入り混じっているのではないか。
専門知に対するある種の軽蔑は、同じ職務に長く就かせないという慣業と密接に関係しているのだろう。同じ部署にずっといて「専門化」していく職員を同僚は軽蔑する。それが専門知そのものに対するそれへと転化してくのだろう。
専門家はオーダーメイドに傾きやすい。知識がある故にオーダーメイドな期待に応えてしまいたくなるのが人間の心情というもの。しかしそれは公平・公正の理念と鋭く緊張を孕む。そこに危うさと卑俗さを重ね合わせる時、それが軽蔑へと繋がる。役人が専門知を期待された時に起こす生理的反応の起源。
もっといえば、知識の相対的な量と質がプロと素人を分かつのではない。専門性に向き合う態度がそれを分かつのだと言える。このことの重大な意味が、多くの人にあまり意識されていないと感じる。
あらゆるものが外注できる時代に、外注するという態度の根幹にある専門性に対する期待と無知を炙りだすのは、素人の役割なんじゃないかと、最近思うようになってきました。
私は現場ですごく脱構築的な試行錯誤をしてるんだと思う。たぶん。
私のうちも中流下層より下くらいだと思うけども、持ち家に住んでるとあまりそういう実感湧かないね。都会の喧騒から離れてると余計に。ご飯にもお金使えるし。
親子二世代が同じ持ち家に住んでいて、うちの親は家から徒歩30秒の場所にある会社に通っていた。そういう環境は都会にはない。私ははじめて地元を離れた世代なのだけど、うちの人はよく、都会はあらゆる面で恵まれている場所だと言っていた。そういう実感は、今の私にはない。
私はよく、うちがお金持ちなのだと誤解されるのだけど、むしろビンボーですよ。そういう人たちと比べたらね。でも綺麗な持ち家に住んでいる。海とお城があるいい街に住んでいる。親は6時までには家に帰ってくる。それは平凡なことであり、素晴らしい環境だったのだろうね。
ビンボーな母子家庭に育って大学院まで行き国家公務員になる人は全体のどれほどの割合か知らないが、例外的であることは確かだろう。私が知る限り、同様の境遇で私以上の学歴に達した人はいない。だから私はビンボーな家に育ったけども極めて例外的な処遇にいることは認めざるを得ないが。
貧しさ、って、そんなに単純なものでもない。
ただし、母も私も勉強はできる方だった。親子二代に渡って学年一位をとっていたことについては母の友人間でも周知だった。かといって母に出世欲はそれほどなかったし、私にもあまりない。
私の祖父は戦前の都市ブルジョワジーの家庭に育ったから、その辺の文化遺伝子は引きずってるのよね、たぶん。ただ、戦争とともにもうどうでもよくなってしまったのだろう。すべてが零に回帰した、それだけなのだろう。
何かに向かって一生懸命にがんばる、ってタイプじゃないからな、私は。ゆるーく、ふわふわー、と生きていければそれでいいや、と。うちの人、全員に言えることだけれど、基本的に人を出し抜いて何かを成し遂げようという意思がない。それがうちらしいのかな、と思うくらいには冷めている。
オトコ独特の「野心」っていうの?そういうものが皆無な家庭だったので、未だにそういうパッションは苦手ですね。というか、オヤジという存在が苦手。大黒柱、そんなものはうちにはなかった。
ただし女性的なものに対して過剰に同化していたわけではなく、冒険的な要素を身にまとうことが自分の性的魅力を高めることも知っていた。だからそれなりにモテた。けれど私はどこまでも「パッション」というものがない、それだけは模倣できないものだと感じる。オヤジ的なものの欠如。
親子二世代が同じ持ち家に住んでいて、うちの親は家から徒歩30秒の場所にある会社に通っていた。そういう環境は都会にはない。私ははじめて地元を離れた世代なのだけど、うちの人はよく、都会はあらゆる面で恵まれている場所だと言っていた。そういう実感は、今の私にはない。
私はよく、うちがお金持ちなのだと誤解されるのだけど、むしろビンボーですよ。そういう人たちと比べたらね。でも綺麗な持ち家に住んでいる。海とお城があるいい街に住んでいる。親は6時までには家に帰ってくる。それは平凡なことであり、素晴らしい環境だったのだろうね。
ビンボーな母子家庭に育って大学院まで行き国家公務員になる人は全体のどれほどの割合か知らないが、例外的であることは確かだろう。私が知る限り、同様の境遇で私以上の学歴に達した人はいない。だから私はビンボーな家に育ったけども極めて例外的な処遇にいることは認めざるを得ないが。
貧しさ、って、そんなに単純なものでもない。
ただし、母も私も勉強はできる方だった。親子二代に渡って学年一位をとっていたことについては母の友人間でも周知だった。かといって母に出世欲はそれほどなかったし、私にもあまりない。
私の祖父は戦前の都市ブルジョワジーの家庭に育ったから、その辺の文化遺伝子は引きずってるのよね、たぶん。ただ、戦争とともにもうどうでもよくなってしまったのだろう。すべてが零に回帰した、それだけなのだろう。
何かに向かって一生懸命にがんばる、ってタイプじゃないからな、私は。ゆるーく、ふわふわー、と生きていければそれでいいや、と。うちの人、全員に言えることだけれど、基本的に人を出し抜いて何かを成し遂げようという意思がない。それがうちらしいのかな、と思うくらいには冷めている。
オトコ独特の「野心」っていうの?そういうものが皆無な家庭だったので、未だにそういうパッションは苦手ですね。というか、オヤジという存在が苦手。大黒柱、そんなものはうちにはなかった。
ただし女性的なものに対して過剰に同化していたわけではなく、冒険的な要素を身にまとうことが自分の性的魅力を高めることも知っていた。だからそれなりにモテた。けれど私はどこまでも「パッション」というものがない、それだけは模倣できないものだと感じる。オヤジ的なものの欠如。