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- 04/28 [PR]
- 07/11 医療法人の「従たる事務所」について
- 06/13 マンション管理組合の「理事全解任」と業務委託。
- 04/14 「異議を述べた債権者はいない」ということの意味
- 04/01 愛すべきもの
- 03/18 『夜のみだらな鳥』と、無意識の昏い淵。
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医療法人を設立するにあたっては、定款又は寄付行為において、「その開設しようとする病院、診療所、介護老人保健施設又は介護医療院……の名称及び開設場所」(医療法第44条2項3号)、「事務所の所在地」(同4号)などを定めなければならないとされており、「病院・診療所」と「事務所」とは概念的に区別されている。
従って、病院や診療所があるからそこに「従たる事務所」もあるとは限らないし、逆も然りなわけです。(もっとも、病院がない場所には通常、事務所は置かない。)
だから、病院を新たに設置する場合に必ず「従たる事務所」を置かなければならないというわけではない。複数の病院を設置している医療法人でも従たる事務所は置いていない場合は多い。
ここでいう「従たる事務所」とは、株式会社でいうところの「支店」のようなもので、独自の指揮命令系統を持ち、主たる事務所とは独立して組織的業務を行うことのできる実体を備えていることを要する。また、株式会社の支店の場合は、業務執行権を持つ取締役の決定で設置することが可能であるが、社団たる医療法人の従たる事務所は、定款の絶対的記載事項なので、その設置や廃止には社員総会の決議を要し、所管官庁への届出も必要になる。
なお、通常、医療法人の定款(寄付行為)の変更は、都道府県知事の認可を受けなければ効力を生じないとされているので(同法第54条の9、3項)、病院や診療所を新たに設置したり、その所在地を変更する場合には、所管官庁の認可が必要になり、定款変更を所定の機関で決議し、認可を得て、初めて変更の効力が生じる。
が、これには例外があり、事務所の所在地と、公告の方法を変更する場合においては、認可がなくても効力が生じるとされている。(医療法施行規則第33条の26)
従って、従たる事務所を設置するだけなら、定款や寄付行為の変更決議だけが必須であり、認可は必要ないわけです。(ただし、所管官庁への「届出」は必要であることに注意。)
某不動産会社の人と、法人化したマンション管理組合に管理会社を役員として就任させることはできないよね、っていう話をしていた。
ここで言う、「法人化したマンション管理組合」というのは、区分所有法(建物の区分所有等に関する法律)第47条1項に規定されている管理組合法人のこと。管理会社が実質的な管理業務を一括して引き受けているのだから、管理組合法人の理事は名目上の存在に過ぎなくなり、登記簿に公示する必要性も必然性もなくなるのだから、理事を全員退任させて、代わりに当該管理会社を役員として就任させることは可能かどうか、という趣旨で、当然、それはできない、ということは相手もさすがにプロなので、できない、という話はそれとなく理解している。
なぜかと言えば、同法第49条において、「管理組合法人には、理事を置かなければならない。」とされており、代表権を持たない平理事であっても、全員退任はできない。また、会社などの「法人」は理事に就任できない、という明文の規定はないが、解釈上、理事の資格要件は一般社団法人の「理事」と同様の扱いであるべきとされているから、管理会社が管理組合法人の理事として就任することもできないからである(『基本法コンメンタール――マンション法――』日本評論社など参照)。
となると、世間的には、管理会社に管理を一括委任しているマンション管理組合と管理会社との関係はどうなっているのだろうか、疑問に思う向きもあるかと思うが、殆どの場合、国土交通省が定めている「マンション標準管理規約(以下、「標準管理規約」)」及び「マンション標準管理委託契約書」が用いられている。
そもそも、区分所有法上、管理組合を法人として登記する義務はない。管理組合を法人化するかどうかは任意であり、区分所有者の総意で決めることである。同法49条において、理事を置かなければならない、とされているのは、あくまで区分所有法上の「管理組合法人」として登記しているものだけである。日本全体として見れば、管理組合法人として登記されているマンション管理組合の方が例外的であり、日本の殆どのマンションでは法人化していない管理組合が組織されているわけである。
あまりに人口に膾炙した表現なのであらためて考えてみる人も多くはないと思うのだが、そもそも「管理組合」という表現自体、区分所有法には存在せず、同法第3条においては「区分所有者の団体」という表現が用いられているだけである。では、世間的にいう、「管理組合」というのはどこから来た表現なのかというと、マンション管理士の資格や管理業者の登録制度を定めている、「マンションの管理の適正化の推進に関する法律」の第2条、及び、国土交通省が策定している「マンション標準管理規約」上の表現として用いられているものなのです。
同様に、不動産会社の社員などが業務上よく用いる「理事」とか「理事会」というのは、「標準管理規約」上の表現を指して言っている場合が多い。標準管理規約があまりに普及しているために、大本の根拠法令である区分所有法上の表現よりも、標準管理規約上の表現の方が一般に広く用いられているわけです。区分所有法上は、理事は管理組合法人にしか置かれない機関ですし、「理事会」については何の規定もありません。逆にいうと、標準管理規約上の「理事」や「理事会」というのは、あくまで「規約上の役職」に過ぎず、法定の役職名ではないわけですね。
冒頭の話に戻すと、「理事を全員解任して管理業者を選任する」ということの意味は、管理組合法人でない、マンション管理組合が、その規約上の役職をすべて解いて、管理業者に管理業務を一任する契約を結ぶ、という意味として解釈するなら、それは当然可能ですね、という話になる。もともと法定の機関ではないのだから全員解任してもまったく問題がない。ところが区分所有法上の管理組合法人となると、話が違ってくる。
もし仮に、既存の管理組合法人が理事を全解任して、管理業者に業務を一任したい、という趣旨であれば、法定機関である理事の全解任はできないから、法人の解散を決議して、通常の管理組合に戻った上で、管理規約上の理事を全解任して業務を全部委託する、という形になるだろう。
なぜ不動産会社や管理組合が管理会社に業務を委託するにあたり、理事を全解任したがるのかと言えば、まず、理事のなり手がいないこと、標準管理規約において理事長は区分所有法上の「管理者」とされているため、第一義的には管理業務の責任を負わなければならない立場にあること、などがあり、その負担を避けたいという意図がある。法人化していない管理組合ならば理事の全解任は規約に反しない限り可能であり、管理業務の一括委託も特に否定されていないことから、このような形態は今後も増えていくことが予想される。この点、管理組合法人の理事に管理会社などの「法人」が就任できるようにするような法改正も、立法論としてはあり得るかもしれない。
昨日は、債権者保護手続きの話が少し出たので、今日は実務上の見過ごされがちな留意点について少しコメントしてみます。
合併や会社分割などの組織再編においては、債権者を保護するための手続きが法定されていることは周知のとおりですが、具体的なM&Aのプロセスにおいては、債権者も含めた関係者と緊密にスケジューリングを重ねながら進めていくことが通常ですので、組織再編の効力発生日間際になって債権者から突然「異議」が出されるような事態は、一般に考えられているほど多くありません。事前の段階で、こうした組織再編行為について、銀行などの債権者とも交渉を重ねて、議論が熟していることが通常ですので、土壇場になって「不意打ち的に」知れたる債権者から異議が出されるような事態はむしろ一般的ではないのです。
組織再編について異議を述べることができる債権者がいる場合、会社は、官報による公告と債権者に対する個別の催告をしなければなりません(会社法789条など)。そして、異議を述べた債権者がいる場合には、「当該債権者に対し、弁済し、若しくは相当の担保を提供し、又は当該債権者に弁済を受けさせることを目的として信託会社等に相当の財産を信託しなければならない。ただし、当該吸収合併等をしても当該債権者を害するおそれがないときは、この限りでない。(同法789条5項)」と、されています。
登記申請の段階においても、異議を述べた債権者がいない場合にはその旨を会社代表者が申述する必要があります(松井信憲『商業登記ハンドブック(第3版)』p.553.)。異議を述べた債権者がいる場合には、債権者の異議申立書と、債権者作成の弁済金受領書、担保契約書又は信託証書等が添付される必要があります(平9・9・19民四1709号通達)。
然しながら、仮に異議申し立てがなされても、「債権者を害するおそれがない場合」にはこれらの弁済、担保提供行為も必要ではありません(上記条文参照)。さて、ここで問題となるのが、どういった場合に「債権者を害するおそれがない場合」と言えるのか、という問題です。実務上の考え方としては、会社の資産状況、経営状況が良好であって、そのキャッシュフローに比較して異議を述べた債権者の債権額が少額である場合や、十分な担保が提供されている場合(森・濱田松本法律事務所編『組織再編(第2版)』(新・会社法実務シリーズ・9)pp.262-263.)、合併後の会社の財務内容に鑑みて当該債権が弁済を受けることが確実な場合に加えて、合併前から債権者に対して債務全額を弁済する可能性がないところ、合併をしてもその可能性がより低くなることはない場合なども含まれるとされています(玉井裕子ら編『合併ハンドブック(第1版)』p.203.)。
「債権者を害するおそれがない」ことの立証責任は当該会社が負います。吸収合併の事前手続きにおける書面備置期間には、合併契約書の他、会社法施行規則182条1項5号(消滅会社)及び、同施行規則191条1項6号(存続会社)が定めている、「債務の履行の見込みに関する事項」を記載した書面を本店に備え置かなければならないとされていますが(会社法782条1項1号、同法794条1項)、この事前開示事項を示しただけでは、必ずしも個別の債権者を害するおそれがないことの立証をしたことにはならないとされています(江頭憲治郎『株式会社法(第6版)』p.875.)。実務での取り扱いとしては、十分な被担保債権額を有する抵当権の登記事項証明書や、異議を述べた債権者の債権額、弁済期、担保の有無、合併当事会社の資産状況、営業実績等を具体的に適示し、債権者を害するおそれがないことを会社の代表者が証明した書面を添付する必要があります(平9・9・19民四1709号通達)。
債権者が異議を述べる、ことの実務上の意味についてももう少し掘り下げてみます。前述したように、M&Aのプロセスにおいては、債権者も巻き込んで入念な話し合いの場が複数回に亘って設けられ、その流れの中で債権者と合併当事会社との間で了解事項が形成されていくのが普通です。当然、会社債権者としては、個別催告を受けて初めて組織再編の計画について知るのではなくて、事前の話し合いの場が十分に持たれた上で債権者保護手続きのプロセスを踏むのが普通だと思われます。その上でなお、銀行などの会社債権者が「異議」を申し立てる理由というのは(異議は口頭で行うことも可能ですが、証拠を残すために通常は内容証明郵便で行います。)、事後的に会社の財務状況が悪化していることが判明した場合や、合併手続きに瑕疵があった場合に備えて、当該組織再編行為の無効を訴える前提を整える意味合いがあります。
というのも、会社法828条2項においては、当該組織再編行為の無効を主張することができる債権者は、当該組織再編行為について「承認をしなかった債権者」であるとされているからです。つまり、債権者としては、事後的にリスクを負うことを避ける意味でも内容証明郵便で「とりあえず異議を述べておく」のも経営上の判断と言えるわけです。では、組織再編行為自体には反対しないけれども、事後的なリスクに備えてとりあえず異議を述べておきたい、というような場合、このことをもって、会社は、「実際には異議を述べた債権者はいなかった」と抗弁することができるでしょうか?確かに、その債権者は当該組織再編自体に異議を差しはさむ意図はないかもしれません。しかし、それをどのように会社は証明できるのでしょうか?やはり、内容証明郵便で「異議申立書」が送付されてきた以上は、会社が積極的に「債権者を害するおそれがない」ことの立証をする必要があるのではないでしょうか?
登記申請時には、異議を述べた債権者はいない、ことの申述を会社の代表者が行うわけですから、その申述の最終的な責任は会社の代表者が負うことになるわけですが、仮に内容証明郵便で「異議申立書」が送付されていれば、第三者に対してその事実をもって「異議を述べた債権者はいない」ことを抗弁することは極めて困難です。仮に債権者側がその真意を明らかにしたとしても、民事訴訟上の証拠力が認められる文書に「異議の申述」しかないのであれば、その抗弁は危うい基礎の上に成り立つことになりかねません。となれば、事後的な紛争を避ける意味においても、当事会社の側が積極的に「債権者を害するおそれがない」ことの立証をし、その申述をした書面を残しておくことが有益です。このような立場から、例え債権者の側のリスク回避的な判断として「異議申立書」が送付されてきたに過ぎず、会社と債権者との間にその合意がとれているとしても、「債権者を害するおそれがない」ことの申述をした書面を作成しておくのが無難である、と薦めることができそうです。
今まで知らなかった一面を見る機会が増え、新鮮に感じると同時に、少し切なさもある。
人間とは、人と人の関係性の中に本質があるのだな、と改めて感じさせられる。
これまで家族の中では決して話題になることもなかった、半ばタブー視されていたような話題も出るようになり、いい意味で、新しい関係性が生まれている。いわば、結婚の効用か。しかしまだまだ変化してゆくのだろう。
家族のことについて、私は殆ど何も知らないのだなあ、と気づく機会が増える。家族が増えたことで、自分の家族についての理解が深まっていく。こういうことはありきたりの経験なのだろうか。他人の家族についてはあまり関心がないので、それは知らない。
母について、私が知っている母とは少し違う一面が、相方も交えた三者会談の中で明らかになったりする。逆に言えば、母も私についてはそれなりに知っていても、私と他人との関係性の上でしか明らかにならないこともあるのだろう、と思われる。
誰かを理解する、というのは1対1では難しい。知りたいと思うその人が、自分に対してホンネで向き合っているとは限らないし、仲がいい同士でも、その人にしか向けない側面というものを誰しも持っている。友人関係でもそれは同じだろう。よく、三角関係が拗れやすいのは、3人が3人ともいつも同じ面を見せているとは限らないからである。AさんとBさんとCさんがいて、AさんはBさんにしか見せない部分があり、BさんはCさんにしか見せない部分がある。それに段々と気づいてくると、3人のバランス感覚が崩れてくるのである。
家族関係についても同様で、その家に新しい人が入ってきて初めて明らかになる家族の側面、というものがあるらしい。そしてそれは、上手くいけば家族関係に新陳代謝を齎してくれるものでもあるのだろう。変化したバランスを取ることに失敗すると、嫁姑や兄弟同士の争いごとなどが生じてくるに違いない。
歳を取るだけでは、家族間の人間関係というものはそれほど大きく変わらないのかもしれない。むしろ、外部から新たな構成員を迎え入れることで、そこに変化が生じてくるものらしい。以前は漠然としていたのに、「家」というものを意識させられるようになる。
家、なんてものは、婚姻関係を通じてしか具体化しないのかもしれない。それまでは空気のようなものだが、結婚によって他者を迎え入れることを通じて、初めてそれが具体的なものとして意識されるようになる。そして、家族というものがどういうものなのかを知るのは、その時になってからなのかもしれない。
結婚をしないと家族が生じない、とは思わないが(所詮は婚姻関係は「制度」なのだし)、誰かを家族として迎え入れる、というのは決定的な機縁であるように思える。少なくとも、私の母について言えば、私が結婚したことで改めて「母」として、母を意識するようになったと思う。
母の自己犠牲的な性格はよくわかっているつもりだったけれども、その深いところの意味について、改めて思うところがある。世間的な意味での「親孝行」というものを私自身が信じてこれなかった理由も、今ならよくわかる。私は母に対して孝行をすることで、自分の生活の一部でも切り取ることを母がよく思わないことを胸の内でわかっていたからこそ、その自己犠牲的な響きを信じることができなかったのだ。母はそういう人なのだ。だから私はナルシストになるべくしてなっている。私が自由でなかったら、母も自由になれない。だから私には、自由でいる義務さえあるのかもしれない。
そういうことは、自分が親に何かを与えることを親孝行だとする向きには理解不可能な、というより親不孝者に限りなく近いのかもしれないが、私にとっては自然なことである。けれども、それがすべてだとも思えない。新しい家族が増えたことで、私なりのやり方以外の仕方で「孝行」しても、案外いいのかもしれないと思うようになったことも事実である。これは「感化」と呼べないこともない。
感化されてゆく部分と、変わらない部分と、両方が混じり合ってより複雑な色合いになっていけばいいと思う。私の生活には矛盾がいる。矛盾と葛藤こそ愛すべきものである。
一言で言えば、タナトスの世界。
見えない場所、泥のような昏い部分に対する愛着、そういう人間の澱が沈殿していき、異形の存在が造り出されていく。
人形のように空虚な彼らの魂は、光の世界に住まう「主人」に従属していながら、いつしか、その主人さえも、脅かす存在になっていく。
これを現代の階級社会の見立てとして見ることもできる。けれども、私はもっと普遍的な人間の意識の「疚しさ」を描いた作品ではないかと思っている。
誰かに嫉妬する、その嫉妬がその存在を輝かしいものにする。その輝きは影を伴い、いつしかその影に飲み込まれる。欲望する者は欲望される者に、見る者は見られる者に支配されているようでいて、実は支配している。召使は主人の生活の不始末と不潔な部分を一手に引き受け、その主人の身体と出生の秘密を知る。マリオネットは操られているようでいて、糸を通じてその主人の人格を脅かす。
そのような死の欲動(タナトス)の世界が、「栄光の世界」より本質的であると、作品冒頭に掲げられたヘンリー・ジェイムズのエピグラフは語っているようでもある。
もう一つのモチーフは、閉じられた世界の美しさ、であろうか。
18世紀に造られた修道院で暮らす老婆と異形の者たちの世界は、彼らの孤独の城であり、内的充足である。
健全な世界に住まう人たちなら、この人為的な楽園を禁忌として退けるに違いない。
ユルスナールの短編に、虚偽の世界で育ち、長ずるに及んで真実の世界を知って絶望した皇帝の話が出てくるが、そのような悲惨さは本書にはない。
何故なら、それは虚偽の世界ではないからである。
これは紛れもない、真実の世界の話であり、ただ、その裏と表があるだけ。
昏い作品だが、美しい物語である。