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- 04/28 [PR]
- 04/08 粛々と
- 04/01 私が私であること、とはどういうことか。
- 03/22 無題
- 12/20 「公権力の中間層」としての「行政権」、とその行方。
- 03/26 これから
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ある人がブログで書いていたことなのだけど、役所の仕事の仕方として、プロセスが重視される、というのがある。結果さえ出せればプロセスはどうでもいい、という人は役人には向かないのだと。そのために、時には迂遠とも思えるような手続きを踏んで事に当たることを厭わない精神が必要だとされる。
それで思ったのだけれど、「粛々と進める」という表現は官僚的で上から目線の感じがすると最近は言われるらしいが、この「粛々と」という表現は殊に役所の仕事のスタイルの形容としてしっくりとくるものがある(表現の適当さ・適切さはこの際置いておくとして)。これは要するに、何がどうあってもプロセスに従って事に当たっていきますよ、という意思表示なのだろう。そういう意味では「融通の利かなさ」の形容として典型的である。
一方で、何がどうあっても前に進んでいく、という不退の精神を示す表現としても読み取ることができ、そういう意味ではある種の「膂力」を形容してもいる。どんな天変地異に苛まれても「粛々と」手続きを進めていく、という意思表示は時に「信頼」の表現ともなる。
もっと別の側面では、粛々と物事を進めていくのだ、という表現は職員が自らを鼓舞する時にも使われたりする。粛々と進めていく、とは、「間違いのないように」しかし「滞らないように」という自己啓発であり注意喚起である。間違ってはいけないし、遅滞してもいけない。そういう啓発の表現として「粛々と」は使われる。
広辞苑を引くと、「粛々」とは、①慎む(謹む)さま②静かにひっそりとしたさま③引き締まったさま④厳かなさま、と四つの意義が出てくる。粛々と進める、とは、ことを荒げずに、着実に、襟を正して進める、というような意味だろう。ここには「音声」の表現はない。いづれの意味内容も「静けさ」を基調としたものである。そして「上から目線」という現代的感覚とは正反対の、謹厳実直を旨とする価値意識が①の「慎み(謹み)」として表れていることにも注目したい。粛々と、はそのような多面的な役人心性の表現として、独特なものがあると思った次第でした。
「私が私であること」というのはそれほど自明なことでもない。要するに、一人一人が行うすべての行動について政府が情報管理をするならそういう証明は、「私です」と一言言えば足りる。でもそれはSFの世界の話。
しかし多くの人はおそらく「私が私であること」を「証明」することがそれほど困難なことだとは思っていない。いつ、誰が、死んで、生まれたか、といったようなことは「届け出」がない限り捕捉されないのだけど、「届け出」という積極的な意思を介さずとも誰かがすべてを知っている、という意識がおそらくある。
だから、「実体」と「手続き」が混濁して捉えられる傾向にある。(それはどこの国でも多かれ少なかれそうかもしれない)つまり、手続きをしなければ「相続」はおこらない、というような誤解など。「法律上当然に発生する」という文言は普通の人にとっておそろしく不安な表現なのだと私は思っている。(「当然に」そうなっているのかどうかは「目に見えない」からかもしれない)
「無戸籍」という事案において重要なのは、まさにこの点で、私が生まれて現に生きている以上、「私が私である」ことを疑う人はまずいない。意識の上では、「私」の存在は自明なのだ。(これはデカルト的である)ところが、その「自明性」を担保しているのは自治体の捕捉作業なのであり、どこまでも人の手が加わっている。
あるいは、「なぜ気づけなかったのか」という問いもこの問題と同一平面上にあると言えるかもしれない。そこでは「気づく」ことが自明視されているからである。気づく、こと以前に、気づくための「事実」を捕捉するための手掛かりがなければならない。そしてそれはどこまでいっても「手掛かり」でしかないのである。(こういうと何とも心もとない)
裁判所でも、私が私であることを裁判官が証明してくれるわけではない。もちろん、「釈明権」というものがあるけども、裁判官はいつも「真実」を明らかにしてくれるわけではない。要するに、民事的な「市民的感覚」というのは「私が私であることを証明できること」に他ならないと言えなくもない。そしてそれは人々の積極的な行動を必要とするが故に、「めんどくさい」ものでもある。
その「めんどくささ」の担保には何が賭けられているのだろうか?あえて答えは留保したい。
だが、ここでちょっと飛躍させてみる。もし、冒頭に述べたように「一人一人が行うすべての行動について政府が情報管理をする」ような世界があるとしたら、そうした世界では「めんどくさい」「私が私であること」の証明は本当に必要とされないのだろうか?と。これは哲学的であるし、SF的でもある。
だから実は、本当に、「私です」と一言言えば足りる、のかどうか?私にはちょっとよくわからない。
いや、「ぶちまけた」というよりも、「垂れ流した」というほうが正しい。
話をすることでできることは問題の解決なのではなく、問題の整理なのだと、わかってはいても、どうも今回は自戒したい。でも、あの時間は必要だったのだろうな、自分としては。
同性同士で素泊まりデートしてやることといえば相場は決まっている。そういう話をするためにわざわざこの機会を作ったのだ。
ずっと、考えていた。あれをどうするか。この問題にどう「決着」をつけるべきか。最初から友人の「アドバイス」を期待していたわけではない。自分の中で漠然と抱いている思いに確信を与えたかっただけなのだろう。
しかし、どうもあては外れたかもしれない。
話せばうまく整理できる、と思っていた。でもダメだった。何度も最初の問いに戻ってしまう。出てきた所に何度も戻ってしまう、方向音痴の迷路巡り。
つまり自分の「決断」次第なのだ、と何度も同じ結論に還る。それを認めたくないわけではない。でもそれを躊躇する自分がいる。躊躇の理由はわかっている。Aという選択を採る場合はXのことが気にかかり、Bという選択を採る場合にはそれを採った時に同時にAもXも失うということを意味する。要するにXの問題を自分の中でどうけりをつけるか、ということがここに絡んでくる。それができないでいるから、Aの道もBの道も選べないでいるのだろう。
ここまで分かっていながら「整理されていない」とはどういうことか、とこれを読んだ人(こんなものを読む物好きな人がいればの話だが)は思うかもしれない。
この問題を複雑にしている要素はまだある。それは、そもそも自分がAとBという二つの選択肢を選べる立場にあるのか、ということである。もし最初から選ぶことなどできないのだとすれば、この問題は様相を変貌させることになる。しかしいずれにせよはっきりしている唯一のことがあり、それは、自分にとってXという存在が非常に重要な位置を占めているということなのだ。
僕にとってXの痕跡は、今から振り返ると自分自身のかなり大きな部分を占めていることがわかる。意識の上層に上がってこない時でも、ふとした時に意識していることがある。何より今の自分自身のものの見方、考え方にかなり影響を与えている。自分の人生において、未だかつてこれほど大きな痕跡を残した存在はない。
でも、だからこそ、自分の中で「けり」をつけなければならないのだ、ということもよくわかっている。このまま行けば、僕はいつまでもXの影に悩まされることになるだろう。それはとても生きづらい人生を歩むことを意味する。だが、そもそもXを「忘却」することなどできるのか?それはおそらく無理だろう。時間は最高の妙薬だというが、これに関してはもう無理だと断言できる。僕にとってXの痕跡はあまりにも大きすぎ、深すぎる。
だが、だとしたらどうすればよいのか。このまま何もかも放置することはできないが、行動することで失われるものが何かが未だ不明瞭なのが僕の決断を遅らせている最大の理由なのかもしれない。何かを得ることで何かを失うのは当然の理だ。僕はそのこと自体は仕方ないことだと思っているし、仮に何かを失ったとしてもそれを受け入れるつもりではいる。しかし、得るものも失われるものも不明瞭な状況で「決断」をしなければならないとしたら、どうにでもなれ、という開き直りが少しは必要になるかもしれない。
そういう開き直りができるのはいつになるのか。
いづれにせよ、Xの痕跡とこれからずっと付き合っていかなければならないのだとすれば、僕に本当の意味で心の平安が訪れることはないかもしれない。それは仕方のないことだ、だから腹を括れ。
そうだ、腹を括るしかない。長い痛みに、耐えるために。
それができないのは、まだ「可能性」を信じているからなのかもしれない。本当に馬鹿だなあ、と思う。こんな馬鹿になってしまったのも、何かもあいつのせいである。
あの時、決着をつけたつもりだった。僕としては。
でも、はじめから無理だったのかもしれない。
決着をつけることなんて。
そうやって「けり」のつかないものをずるずると引きずっていくのが人生というものなのだろうか。たぶんそうなのだろう。大人というのはそういうものなのだろう。
けりがつかない、のではなく、けりをつけたくない、のかもしれない。
不可能性に振り回されながらも、それを自分で望んでもいるのだ。
たぶん無理だとわかっている。でもいつまでも開いた扉をそのままにしておきたい自分がいる。可能性は「希望」の言い換えだ。「絶望」したくないから、可能性をそのままにしておきたいのだ。
しかし、「選択」は、しなければならない。
決断しなければならないと思う。
たとえ得るものがなく、失うものしかないのだとしても、選択を放棄することはできないだろう。
その前に、どういう段取りで行動するのが一番後悔しないで済むか。ちゃんと考えておこうと思う。そのくらいの時間はまだ、少しはあると思う。
改めて考える。もし、Bという選択をとるとして、そこから先にXという可能性の成就にひたすら賭けるのか。それはもう、通常の意味で現世においてXを含む世界と断絶することを覚悟しなければならない。Aという選択は確かにXの可能性の完全なる放棄であるけれども、Bという選択を採るにしても、Xの可能性の成就以外には「断絶」しかありえないのだ。僕はXを含む世界が好きだ。要するに、「可能性の成就」以外で、「Xを含む世界」を認められるかどうか、にすべてがかかっているとも言えるかもしれない。
僕はそういう世界を望んでいるのか、それとも、あくまで「可能性の成就」にこだわるのか。
公権力、というものを実体的にとらえるにせよ、関係的にとらえるにせよ、それは究極的に二つに分かれると思うんです。「物理的権力」と「観念的権力」。この二つは相補的であって、どちらも一方に依存している。物理的権力が軍事・警察権であって、観念的権力が司法権である、という具合。
「行政指導」という概念を考察すれば明らかなように、行政権は警察権・軍事権的な性質と、司法権的な性質を両方含有している。このことは、「行政権」という「固有の」権力がそもそも存在するのか、という問題を暗示しているようにも思う。
論理的には、公権力というものは二つしか存在し得ず、「行政権」というのは物理的権力と観念的権力の間に存在する「中間層」なのだろうな、と考えることもできるのではないか。行政権は主に富の再分配装置としての機能を担うが、物理的権力と観念的権力の二極だけではこれを実現できない。
軍事・警察的権力と司法的権力の妥協の中から行政権というものが生じてくる。その「妥協」がなぜ行われるのか、といえば、簡単に言うと、テクノロジーの不備によるのだろう、ということ。この妥協は、富の分配という「平等」の原理と「自由」の追求という近代社会の二大原理を両立させるための妥協だ。
司法権も警察・軍事権もそれ自体が「社会の理念」を担うわけではない。理念とは、論理的に帰結される必然的な「解」ではなく、「こうあるべき」という倫理観を含むもので、それは近代民主主義においては、議論と立法を経て形式的に担保されているものだ。それが「形式的担保」であるという点が重要。
大衆社会において「理念」というのは常に形式的に担保されるしかないと思うんです。その「形式」に対する信頼こそが「行政権」の拠り所だと私は思っている。ところで形式というのは、確固普遍のものではなく、テクノロジーの発展次第でそれに対する信頼の在り方も変わっていくわけです。
昔は公務員がやっていた仕事も、技術進歩とそれに密接に関係した人々の感性の在り方の変化によって、公務員じゃなくてもいいんじゃね?ってなるわけです。果たして、これを「新自由主義」という経済学者の一学派の価値観として矮小化して捉えるだけでよいのだろうか、ということです。
ピケティの著作には確かに新自由主義批判という要素もあるにはあるでしょうが、彼自身、意識的か無意識的かによらず、もっとスケールの大きな問題に触れてしまっているように思うのですよね。フランス革命的な原理の究極的な論理的帰結はフランス革命的な原理の否定であるという点だけではなくね。
話を元に戻すと、今現在起こっていることは、「行政権」という「公権力の中間層」の分解なのだろうな、ということ。これは「新自由主義」の流れとも重なるし、その大きな流れの中で「新自由主義」も位置づけられるのだろう、ということ。
「新自由主義」という原理が手ごわいのは、学派として有力であるというよりも、それがより大きな人類史の(思想的・社会的な)潮流の中で位置づけられるようなものだからこそ、それだけを取り出して批判する、ということが難しいからだとも思う。図らずもピケティはそれを指摘してしまうのではないか。
「公正」を担保するのなら司法権でよい。「強制」を担保するのなら軍事・警察権があればよい。「こうあるべき」という理念を実現させるにはその両方が必要であるがゆえに、公権力の中間層が必要とされる。民主主義社会の理念が形式に対する信頼にあるのなら、その形式に対する感受性の在処が問題。
いわゆるリベラルの保守批判も、社会民主主義者からの新自由主義批判もなんとなく弱くなってしまうのは、このもっと深い部分にある潮流を言語化することがまだ不十分だから、というのが大きいだろうな。だから今更ピケティを持ち出して「やっぱり再分配だ!」と言っても上滑りする。
今の左派(あえてサヨクとは言わない)が構図的には「保守」に近接してしまうのも、そういう深層部分での変化に適応できていないから、だよな。だからピケティを持ち出す連中には胡散臭さを感じるけど、ピケティ自身は割と面白い点を突いてるんじゃないか、というのが私の直観。
最初はぼちぼちいろいろなことを覚えていけたらいいなと思います。
まずは法律の勉強ですね。一応、試験勉強で基礎的なことはやったのですが、使えるレベルのものにするためにはこれから習練が必要です。
それから、修士論文のテーマをより掘り下げていくこと。これはまあ、一応長い時間をかけて手広く勉強しながらやっていけたらいいなと思う。どのみち焦る必要はないので、えっちらおっちらやっていく。とは言え、修論で扱ったことをそのまま引きずることはしない。今、大まかにいくつかテーマを見据えている。
① 20世紀初頭における「社会科学」の発展
② 19世紀から20世紀にかけての「言語」に関する思想、学問の展開について
③ アイルランドにおける文化ナショナリズムとアカデミズムの関係について
以上のテーマは一応、内的に関連を有しているけれども、基本的には、それぞれ別個の問題として頭の片隅で考え続けていきたい問いなのである。その際、修士課程では十分に勉強できなかった日本との関係をも視野に入れながら、しばらく考えたい。
こうしたテーマを自分なりに設定するのにはそれなりに理由があるのだけど、それはまた別の機会にメモでも残しておこうと思う。指針なく漠然と読書するのではなく、一定の問題意識を常に頭の片隅に置いていたほうが何かと生産的だと思われる。