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とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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 私は、「欲望」というのは所謂、「肉食系」の専売特許のようであってはならない、と思っていて、その意味での「欲望の哲学」を再構築する必要があるのではないかと考えている。だから、「欲望会議」と聞いて、草食系男子がそっぽを向くようなものであればそれは概念が狭隘にすぎるんだと。





 真の欲望の哲学は、セックスもせず、家の中でごろごろしているような人のためになければならないわけです。セックス中心的な欲望の哲学では、いくら変態になろうとも、真に革命的な思想にはなり得ないのではないかと。セックスは欲望である。しかし、セックス以外の欲望の哲学がなければならない。





 法律学だとか社会制度論の重要性はそこにあって、欲望は制度によって形作られる側面がある以上、制度を学ばなければ欲望を理解できない。西洋法制史と精神分析のバックグラウンドを持つルジャンドルの位置付けが重要なのはその点に係ってくるからで、だから千葉さんもルジャンドルを意識している。





 私が村田沙耶香に注目しているのも、彼女の文学が「欲望」と「制度」との結びつきを一つの問題としているように感じるからかもしれない。そういう、文学サイドの流れは美学的な関心としてあるのだが、実は制度論的な観点からも興味がある。





 「欲望の哲学」にもいろいろあると思うし、それこそバタイユのような消費の哲学から本邦における宮台のナンパ論まで、ざっくりと「欲望」を中心的なテーゼに据えた思想があると思うのですが、欲望の哲学には、欲望する身体、欲望の対象たり得る身体を特権化する傾向があり、そこが選民的でもある。





 つまり、欲望の構造には権力が結び付いているわけですが、欲望の哲学はマイノリティに荷担すると同時に、新自由主義的経済体制の勝者に対してもそれを支える役割を果たしてしまうのではないか、という疑念が私にはあるんですよね。





 欲望を肯定し、社会の記号を反乱させ、混乱させることで、身体の具体的なコミュニケーションを回復させるのが欲望の哲学の主眼なのだとすれば、そこでは「欲望される身体」を中心とした権力構造が前提とされてはいないだろうか。美しい肉体はやはり、記号の氾濫の中でも美しいのではないか。





 欲望の哲学は肉食系の専売特許であってはならない、というのはつまりそういうことで、欲望を開放するなら資本主義的体制の勝者に対してその価値の転倒を図るものではなくては批判的思想にはなり得ないのに、通俗的な消費の哲学ないし欲望の哲学はむしろ勝者に荷担してしまっているのではないか、と。





 だから千葉さんが進める思考の方向性が根本的に、新自由主義の勝者たる肉体を賛美するものに過ぎないのならば、そこにはなんら批判性はないのではないのか、通俗的な消費社会論と何が本質的に違うんだ、という話になるわけです。そこまで読み込めているわけではないのですが。





 話は変わりますが、例の落合×古市対談に対する批判の中で、「身体の工学化」を批判する見解がありましたけど、何をいまさら、という感じではあります。





 2000年代の半ば以降に、東浩紀を中心としたグループが『思想地図』の中で展開していた考え方は、アーキテクチャの進化に社会改革を委ねようとする方向性を有するものであり、明確に工学的発想で人間とその社会を構築的に捉える傾向がすでに見られました。





 落合さんや古市さんの見方はそうしたゼロ年代半ば以降の言説体系の延長にあるわけです。また、「身体の工学化」というのは「工学の身体化」でもあって、実際に相互領域の浸潤が相当程度に進んできている現状を考慮すると、身体の工学化という発想そのものを批判するのは分が悪いと言わざるを得ない。





 話がそれましたが、この「欲望の思想」と「身体の工学化」は別次元の話のようでいて、実は同じ一つのパラダイムの中にあるのかなあ、という気がしている。落合さんの専門領域においては「アート」と「技術」の領域横断的な知が模索されているし、ドゥルージアンである千葉さんの哲学の方向性は人間の「皮膚感覚」に訴えてくるものでもある。人間の皮膚感覚のレベルを工学的に分析、構築していくという意味では、両者の方向性は似ていると感じるところがある。




 現代思想の最前線において、今一番訴求力がある領域は「アート」と「人間工学」の横断領域であることは様々なシーンを見ているとよくわかる。工学的知の台頭という現象はゼロ年代半ば以降に顕著となり、今や現実の社会に実装されつつある。これをフーコー的に揶揄すれば、新たなる権力の誕生ともいえるかもしれないが、それに対する批判の程度は、かつての「監視社会」に対するほど強くはない。





 その一番大きな理由は、こうした工学的知が、功利主義・快楽主義的思想に裏付けられているからともいえる。皮膚感覚の快楽を追及する観点から、社会や人間のあり方を工学的に設計する在り方が是とされる。大まかに言って、これが今日におけるトレンドであるといえる。より快適に、より心地よい世界を構築するために、我々は皮膚感覚の訴える不快な要素を洗い出し、その解決をアーキテクチャに委ねてゆく。これは一口にいえば、肌感覚主義、皮膚感覚主義であるともいえるかもしれない。





 これはアンダーグランドの思想領域において隠微な支持勢力を拡大してきた「加速主義的」見方に符合するものがある(「加速主義」については別に検討する余地がある)。技術の進歩に人間社会の行く末を委ねようとする発想は必ずしも、かつてのようなリベラルな様相を帯びてはいない。むしろ、身体の工学化は新自由主義的観念と親和性が高い。快楽を中心に据える思想は資本主義社会の勝者の凱歌となる。しかし、我々は快楽を追求しなければならない。いかにしてこのパラドックスを解決するか。これが課題となるはずである。
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 能楽サークルには確かに内向的な人が多い気もする。けれど、能楽は「演劇」なのだとすれば、少なくとも外側に向かうエネルギーは放つ必要がある・・・。が、これも複雑な話で、能楽はある意味、「内向きの表現」にこそその美学の一端、というより本質がある気がするのである。




 しかし「内向きの表現」がその本質であるからといって、内側に込めるだけでは表現として成立しないのであって、さように能楽的な身体というのは緊張を孕んでいる。内向的な人がそのまま能楽的な表現に向いているのではなく、むしろ情念のベクトルを発揮しつつ、それを内側に込めなければならない。




 元々情熱家なタイプの人であれば「内側に込める」段階が重要になるのだが、元々内向的な人だとそもそも情念を発露させる訓練を経た後、それを内に込める段階に達する必要があるために、情熱家タイプよりむしろ「手間がかかる」と言えなくもないのではないか、と常々思っていて。




 だから大学能楽サークルに集まってくるタイプのマジョリティは実際のところ、世間的にはマイノリティなのだと思うけども、そもそも大学能楽サークルに集まりやすいタイプの人が能楽という技芸に向いているのかどうか、というと確信が持てないのである。




 どちらかというとスポーツマン気質の人のほうが向いている気がするのだが、スポーツマン気質の人というのはまず大学能楽サークルには入らない。(例外はある)しかし、であるがゆえに、大学能楽サークルの牧歌的な平和が実現しているとも言えるわけで、これに関してはなんとも言えない。




 よく私は、自分みたいな人間ばかりになれば世の中平和になるのになあ、と考えたりするのだが、私みたいな人間ばかりじゃないから私みたいな人間が重宝される場所があるわけで、これは当たり前の話なのである。




 大学能楽サークルにおける内向気質、の話に絡めると、仮に能楽的な身体表現に不向きな人材が大学能楽サークルに供給されてくるにしても、それは能楽文化全体にとってプラスとかマイナスとか、そういう次元で捉えることはない。そういうもんだ、と思うべきだし、そこが大前提になるわけです。




 人類の文化史においては、そもそもそれに不向きな人たちが当該文化を担ってきた領域というものがあるのではないか。というより、およそ文化なるものは、そうした「不器用な人たち」によって担われてきたのではないか。これは逆説的なことかもしれないが、「器用な天才」が必要とされるのは、革命的瞬間においてなのであって、文化史の長い時間スパンの中ではそうした革命的瞬間というのはごく稀にしか訪れない。長く続く平時においては、不器用ながらも「型」に忠実に自分を合わせていこうとする不器用な人たちこそが、その担い手になるのではないか。




 そもそも芸事に向き不向きがあるのか、と私は思っている。ある、といえばあるし、ない、といえば、ない。それが私の見方です。




 たとえば、柔道はもはや世界的スポーツであり、もはや日本のお家芸ではないとすら言える。しかし柔道は日本人に向いていない、という人はいない。あるいは、クラシック音楽は西洋で生まれた西洋人のための文化であるなどとは、もはや誰も言わない。




 最適化された、とは、ある視点から見た見方に過ぎない。その技芸の物理的本質に沿った特質を有する人材だけがその技芸の継承者として相応しいとすれば、人類史において出現した大抵の技芸はもはや滅んでいることだろう。




 その本質をどう見るか、という問題もあるし(その技芸の「本質」なるものは観察者によって見方が変わるだろう)、そもそもある特質がある本質に直接的に結び付くためには様々な前提がいる。指が長ければピアノに長じる可能性は高まるかもしれないが、予期せぬ事故で指先を失う可能性も高まるだろうし、指が長い人が同時に器用でもある保証などないのである。




 ある特質を有する人材を選択的に特定の技芸の継承者に選抜する試みは、文化的な「遺伝的多様性」を損なう危険を孕みもする。そうでなくとも、能楽は「間口が狭い」のである。せめて狭い間口を常時開けておくくらいの寛容さと不用心は持ち合わせていたい。




 能楽という技芸に本来的に不向きな人たちが能楽全体の裾野を広げている、という部分こそが、能楽の可能性であり、面白さであるし、思考の大前提にある。その大前提を踏まえなければ、能楽の身体を受け入れることはできない。その身体は、不向きの先にあるからである。




 芸事に限らず、物事の向き不向きというのはそう単純なものではない。不向き、は避けるべきアクシデントなのではなく、むしろ、常態なのではないか。我々はみな、常に不向きな身体で現実と向き合っていて、ときおり現実と身体がマッチングするに過ぎない。




 不向きは常態なのだから、不向きな身体に慣れてゆけばよいと思う。それが能楽的な身体なのではないか。不向きな身体であることを思い出して、不向きな人生を生き直す。「型」がある芸術は、みなそうだと思う。




 能楽における身体表現の高度な抽象化は、能楽的身体を「人形的身体」にしているのだが、人形的身体とは、この「不向きの身体」を現出させる装置でもある。人形的身体とは、不向きの身体の具象化であるとも言える。故に、人形とは我々の「常態」なのかもしれない。(これは面白い話になってきた)




 人形が我々の似姿であるのは、不器用な現実の我々の似姿であるからではないだろうか。人形がぎこちないのではない。我々がぎこちないのである。

 よくある疑問だと思うのだけど、株主総会を開催した時点で株主名簿上の株主の一人に共同相続が生じている場合、当該株主の共同相続人は「議決権を有する株主」としてみなされるのか、あるいはどのように取り扱われるのか、という問題がある。



 まず、大前提として、株主に相続が生じた場合、株式は相続分に応じて当然に分割されるわけではなく、相続分に応じた「準共有」状態になる。




 会社法第106条では、株主が準共有の状態にある場合の取り扱いが規定されており、




「株式が二以上の者の共有に属するときは、共有者は、当該株式についての権利を行使する者一人を定め、株式会社に対し、その者の氏名又は名称を通知しなければ、当該株式についての権利を行使することができない。ただし、株式会社が当該権利を行使することに同意した場合は、この限りでない。」




 とされている。


 
 準共有状態において権利を行使する者の定め方については、共有物の管理行為として民法第252条が適用されるので、持分に従いその持分価格の過半数で決定する。共同相続により生じた株式共有の場合にも、相続分に応じた持分の過半数で権利行使者を定め得るとする判例があるので(最判平9・1・28判時1599号139項)、基本的には共有者の持分多数決で権利行使者を決めればよい。




 権利行使者を一人決めなければ、株主総会において株主としての権利を行使することができないので、株主総会の成立要件、および決議要件の「議決権を行使することができる株主」(同第309条等)にこれら準共有者を含める必要はないと考えられる。




 一方で、106条但し書にあるように、会社が同意した場合はどうか。判例では、民法の共有の規定に従った権利行使者の決定がなされていない場合、会社が同意をしても権利行使自体は適法にならないとしている(最判平27・2・19民集69巻1号25項)。また、会社の方から議決権を行使する者を決めることも許されない(最判平11・12・14判時1699号156項)。なので、共同相続人間で権利行使者を決めなければ議決権の行使は宙吊りになるわけですね。会社の方から一方的に、「貴方が行使してください」と言うことはできない。




 ただし、登記申請の際に添付する株主リストには「議決権を有する株主」を記載しなければならないわけですが(商業登記規則第61条3項)、ここでは「議決権を行使できるか否か」は問題とされていないので、株主総会開催時において会社が共同相続人について知っていたか否かで記載の方法が変わってくることに注意(法務省HP参照)。仮に総会開催時において共同相続人が権利行使者を会社に通知しておらず、議決権を行使できなくとも、これらの者を「議決権を有する株主」として扱うのである。




 発行株式数が少数の会社において株主の一人に共同相続が生じたような場合で、実質的には権利行使者の決定が経営承継者を決定することを意味するような場合においても、この考え方は踏襲されるので、若干の疑問は残るわけだが(このような場合においては、共同相続人全員の同意で決めるべきとする考え方もある。江頭憲治郎『株式会社法(第6版)』p.123.を参照)、判例の見解を踏襲するならこのような場合においてもあくまで共有者の管理行為とみなして持分多数決によって決めることができるとされる。




 いずれにせよ、中小企業の少数株主の共同相続には要注意である。後日の紛争を避ける意味では、遺産分割と同様の考え方で共同相続人の総意で権利行使者を決定するのが妥当かもしれない。無論、相続人間が不仲であれば話は纏まらないので、記事にある通り、あらかじめ遺言で権利行使者を決めておくのも一つの方法である。また、共同相続が生じた場合の権利行使者を定款で予め定めておく方法も有効である。

何を隠そう、私は美容室という場所が好きである。




特に何が好きだというわけでもないのだけど、あの空間にいる時間というか、何も考えずに淡々と心地よい気分になっていくのが実に気持ち良い。髪も切ってくれるマッサージ店のようなもの、だと思っている。




最近はスカイツリーが見える場所にある美容室に通っていて、そこに通い始めてからそろそろ一年経つのだけど、最近になって私の頭を手掛けてくれた美容師さんが、実に感じのいい人なのである。




もちろん、今までの人が感じが悪かったわけではない。満足していなかったわけでもない。ただ、今回担当になってくれた人は非常に優秀で、もっと言うと、私が今まで出会った美容師さんという人種の中で最も優秀だと感じている人なのである。




何をもって優秀なのか、というか私にそれを語る資格があるとも思えないのだけど、とにかくその人はいい。彼はこれからどんどんいい仕事をしていくんだろうな、と思える、そんな人。




まず、話し方がいい。客を心地よくさせるトーンとスピード。話術が巧みであるというよりも、人を心地よくさせる話し方に長けているのである。これは私の考える「よい美容師」の第一条件である。しゃべりまくる人は嫌いだし、かと言ってあまり陰気臭いのも不安になる。ちなみに私はあまり話さない。美容院に行くと死ぬほど話さない。只管沈黙して寝たふりをし続ける私でも彼の有能ぶりはわかる。なぜかというと、妻が彼との会話の内容を私に話してくれるからである。(夫婦共に同じ美容室に通っていて、妻も彼を指名するのである)




外国人と付き合っているらしい、最近喧嘩したらしい、ハネムーン的なものは沖縄になるらしい、渋谷のいいとこに住んでるらしい、とか個人情報ダラダラなのだけど、そんなところからも彼の有能ぶりが伝わってくる。私は妻の話を通じて得た彼の情報を携えて、何食わぬ顔をして彼を指名するのである。そして終始沈黙し続けるのである。




髪を切る時に客のオーダーを聞くのは当然として、相手の頭の中にあるイメージを掴み取るのが実に上手いと感じる。たいしたオーダーもしていないのに、細部まで、かなり自分のイメージに近い形にもっていってくれる。更に、要所要所できちんと声をかけてくれる。~するから~しますね~、とか、~とバランスをとるためにこっちも揃えますね~、とか、とにかく仕事が丁寧である。丁寧で、しかも声が優しいので気持ちよくなってしまう。新手の風俗みたいだ。




こんなに優れた美容師さんを私みたいなものが指名してよいのだろうか、と思ったりもするし、話術が巧みなのに私みたいな朴念仁ではさぞかし仕事に張りがないだろうな、と余計な気を使ってしまいそうになるが、そこはぐっとこらえて朴念仁に徹する。意地でも会話はしない。それが私のプライド。最近では別の美容室にも出張するようになったらしい(これも妻からの情報である)。やはり売れっ子は違うなと思うし、ますます私のようなものが指名しずらくなるのだろうが、そこはやはり彼を指名し続ける。もうやめてくださいと言うまで指名し続ける。




彼の商業価値を考えると美容室の代金は実に安い。以前、ツイッターで、オーストラリアなどと比べて日本の美容師がいかに安く買いたたかれているか、と言ったつぶやきを目にしたが、それもわかる。客のイメージを的確に掴み、優れた話術と技術を持つ彼のような美容師さんはもっとその専門性を評価されてしかるべきだと思う。美容師というよりも、「美容士」という名称の方が相応しい……。




……などと少し真面目なことを書いてしまったが、基本的に私は美容室で会話はしない主義である。その辺で会った人よりも、美容師さんとする世間話のほうがハードルが高いと感じる。何故かというに、まず自分の髪をいじられているので、自分の内面のイメージを探られているような気がして面映ゆいというのもあるし、営業トークに乗せられていい気になってしまう自分が痛々しいというのもあるし、そもそもこれから何度も利用することになるのにプライベートなことをダラダラ曝け出してしまうことに抵抗がある(他人のプライベートは気になるくせに)、というのもある。などと、いろいろ書いたが、要するに世間話というものがそもそも苦手なのである。




美容師さんに自分の美的イメージを伝える面映ゆさ、というのは、洋服屋さんで店員に自分の好きな服装を伝える時の面映ゆさと同形のものだろう。美的イメージというものは、こうなりたい、こうでありたい、という赤裸々な欲望そのものだから、そういう内面的なテーマを明け透けに話すのは難しい。そういうことに抵抗がない人は、まあ、どうでもいい。気にしない人は気にしないのだ。しかし、なぜ美容室に行くと世間話をしなければならないのだろう。




世間話というものが難しいのは、ありきたりなことをありきたりな感情を交えて話さなければならないからかもしれない。今日は暑いですねえ、とか、三連休どこ行くんですか、とか、趣味とかあるんですか、とか。暑い日は暑いに決まっているし、休みの日は家でゴロゴロして本を読んでいるのである。こんなクソつまらない情報をあえて共有しなければならない理由とはなんだろうか、と考えてしまう。いや、それは話のさわりにすぎないのだ、話をどんどん展開していけばそれなりに面白くなるのだ、と、そりゃあ、そうかもしれないが、そのために私の貴重な瞑想の時間をくだらない世間話を面白く展開していくためのエネルギーに使ってしまっていいのだろうか。




思うに、世間話が好きな人というのは口をついて自然にそういう話ができる人たちなのである。私は口が堅いので知り合いともなかなかそういうフランクな話はしない。基本的にむっつりスケベであるし、むっつりスケベであることにそれなりに誇りと矜持を持っている。むっつりスケベで何が悪い。




美容師さんは好きだが美容師さんとの会話は好きではない。それとこれとは別の話だ。私は彼を指名し続けるし、意地でも会話はしない。

医療法人を設立するにあたっては、定款又は寄付行為において、「その開設しようとする病院、診療所、介護老人保健施設又は介護医療院……の名称及び開設場所」(医療法第44条2項3号)、「事務所の所在地」(同4号)などを定めなければならないとされており、「病院・診療所」と「事務所」とは概念的に区別されている。




 

従って、病院や診療所があるからそこに「従たる事務所」もあるとは限らないし、逆も然りなわけです。(もっとも、病院がない場所には通常、事務所は置かない。)




 

だから、病院を新たに設置する場合に必ず「従たる事務所」を置かなければならないというわけではない。複数の病院を設置している医療法人でも従たる事務所は置いていない場合は多い。




 

ここでいう「従たる事務所」とは、株式会社でいうところの「支店」のようなもので、独自の指揮命令系統を持ち、主たる事務所とは独立して組織的業務を行うことのできる実体を備えていることを要する。また、株式会社の支店の場合は、業務執行権を持つ取締役の決定で設置することが可能であるが、社団たる医療法人の従たる事務所は、定款の絶対的記載事項なので、その設置や廃止には社員総会の決議を要し、所管官庁への届出も必要になる。




 

なお、通常、医療法人の定款(寄付行為)の変更は、都道府県知事の認可を受けなければ効力を生じないとされているので(同法第54条の9、3項)、病院や診療所を新たに設置したり、その所在地を変更する場合には、所管官庁の認可が必要になり、定款変更を所定の機関で決議し、認可を得て、初めて変更の効力が生じる。




 

が、これには例外があり、事務所の所在地と、公告の方法を変更する場合においては、認可がなくても効力が生じるとされている。(医療法施行規則第33条の26)






 従って、従たる事務所を設置するだけなら、定款や寄付行為の変更決議だけが必須であり、認可は必要ないわけです。(ただし、所管官庁への「届出」は必要であることに注意。)




 

 法令上は、あくまで「病院」と「事務所」とは別個の概念である、という点が重要ですし、特に医療法人の経理担当者や顧問税理士などは、この点を認識しておくことが必要です。
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