![]() |
- 04/28 [PR]
- 11/08 好きになることの屈辱
- 11/08 旅すること、老いること。
- 11/08 「政治家」という生き方
- 11/08 能の「中世」について
- 06/18 民事法の世界
Title list of this page
美人に出会うと、憧憬というよりむしろ嫉妬を感じる。単純に一目ぼれする、ということが考えられない。自分の場合、相手のことを好きだと思う気持ちと嫉妬の気持ちとが同居しないと付き合うことができないらしい。相手に接近しつつ、同時に突き放すわけだから、相手としては意味がわからないのは当然。
猫に話しかけるのをためらう、というのもそういう特性からきているのかもしれない。猫を「かわいい」と思うと同時に、かわいい猫に対して嫉妬しているのだ。だからあからさまにかわいいと声をかけることを躊躇する。お前なんぞかわいくもなんともない、と突き放しつつ、愛でるのである。
しかしこの場合、本当に嫉妬なのだろうか。相手に自意識を持たせたくない、という思いは。これはむしろ「私の」自意識だろう。自分の自意識を守りつつ相手を好きになることはとても難しい。私にとってそれは不可能に近い。
美人を好きになる、ことが許しがたい。なぜ自分よりも美しい人間に対して欲情を喚起されなければならないのか。屈辱的ではないか。それを屈辱的だと思わないやつだけが容色漁りができるのだ。単なる犬ではないか。
だから、「見ていたい人」と「付き合いたい人」の区別が考えられない。見る、という行為の浅ましさよ。私の存在を単純な「目」に還元しようという権力には全力で歯向かうのだ。だからこそ、美人には優しくできない。貴様らはよほど思いあがっているのだ。僕は吐いて捨てよう。
一緒にいたい、と思いつつ、相手を突き放すことが同時にできてしまう。僕は自分に恋愛感情を抱かせる人が許せないんだと思う。
猫に話しかけるのをためらう、というのもそういう特性からきているのかもしれない。猫を「かわいい」と思うと同時に、かわいい猫に対して嫉妬しているのだ。だからあからさまにかわいいと声をかけることを躊躇する。お前なんぞかわいくもなんともない、と突き放しつつ、愛でるのである。
しかしこの場合、本当に嫉妬なのだろうか。相手に自意識を持たせたくない、という思いは。これはむしろ「私の」自意識だろう。自分の自意識を守りつつ相手を好きになることはとても難しい。私にとってそれは不可能に近い。
美人を好きになる、ことが許しがたい。なぜ自分よりも美しい人間に対して欲情を喚起されなければならないのか。屈辱的ではないか。それを屈辱的だと思わないやつだけが容色漁りができるのだ。単なる犬ではないか。
だから、「見ていたい人」と「付き合いたい人」の区別が考えられない。見る、という行為の浅ましさよ。私の存在を単純な「目」に還元しようという権力には全力で歯向かうのだ。だからこそ、美人には優しくできない。貴様らはよほど思いあがっているのだ。僕は吐いて捨てよう。
一緒にいたい、と思いつつ、相手を突き放すことが同時にできてしまう。僕は自分に恋愛感情を抱かせる人が許せないんだと思う。
PR
能楽鑑賞、稽古だけが趣味です、というような人生にしたい。
正直、どらまてぃっくなんて求めてないわ。一つのことをダラダラと、ひたすら継続していく。時代とか社会とか、そんな大文字のものを気にかける生き方はしたくないもの。そんな生き方をするくらいなら滅びゆくものたちと共に沈んでしまったほうがいい。
部屋の片隅で古書を貪りながら陰気を振り撒いて梃子でも動かない愚鈍な人でいたいです。
死ぬまでにいろいろなものを見てみたい、という欲求が不思議と自分にはない。世界のどこに行っても所詮、見える景色に大した違いはないのだと思っているからかもしれない。よしもとばななの「TUGUMI」の主人公は、つぐみのことをそのように表現していたような気がする。病弱で狭い世界しか生きることができないが、世界中を旅して回った人よりも多くを知ることができる人。そういう人になるしかない。
この四畳半で見えるもの以外に何があるのか。首狩り族の村に行ってもたぶん、平凡な家族スケッチしか持ってこれないだろう。私にはフィールドワークは無理である。
私にとって旅をする、ということにどんな意味があるのだろう、と考えてしまうと何処へも行けなくなる。せめて謡跡百ヶ所くらいは網羅してもいいだろう、自己目的にするには丁度いい素材だ、と思い定めた。
何年か前、アイルランドに行った時、もうこれほど濃密な時間を旅において過ごすことはないだろう、と悟った。私にとってそこが目的地であるような旅はもうないのだ。根拠は特にない。
その代わり、自分の目が見えなくなる時までに(そういう時が来る、と仮定しての話だが)できる限りたくさんの本を読んでおきたい、とは思っている。音楽は聴けなくともいい。声さえ出せれば。しかし、目が見えない、となると字が書けなくなる、読めなくなる。自分自身の根幹にある「言葉」に対する感度を測るものが失われるのは非常につらい。だからその時が来るまでに、自分の中にできる限りの言葉を蓄えておきたい、という思いがある。
よく、自分の四肢や五感が徐々に喪失していく、という思考実験をする。自分が老いて、身体が欠損していくその刹那を夢見ている。禅の教義には、このような身体欠損の夢想があるようだが、自分の身体が十全でなくなる時を考慮するのは生きていく上で大変重要な心構えであるように思う。なぜならそこで「人間性」が試されるからだ。
私は最近、「老い」を意識することを心がけている。人は死ぬまでにまず老いる(そうじゃない人もいるが)。ある意味、「死」よりも恐ろしいものが「老い」なのである。なぜなら死は体験できないが、老いはその機会があれば確実に体験するものだから。死を想え(メメント・モリ)ではないのである。老いを想え。
こうして言葉を綴り、物事の道理について考えを巡らせることができるのも私が幾分か、正常な判断力と語彙力をまだ保っているからである(その判断の是非は問わないでほしい)。しかし、いつまでも明晰でいられるわけではない。明晰な判断と思考の膂力を失ってもなお、人間は人間であり続けるのか、あるいは何か別のものになっていくのか。私はそこに興味がある。
老いる。ぼんやりとしていく。それを前提とした哲学でなくて何が「思想」であろうか。私は身体の剛健さを前提とした「旅」も「哲学」も信用できない。弱きもの、汚いもの、醜いもの、鈍いもの、ぼんやりとしたもの、が吐き出す言葉と美学。人間が辿り着く場所は結局そこしかあり得ない。
だから私は、若さを信じない。健康を信じない。身体を信じない。旅を信じない。哲学を信じない。
正直、どらまてぃっくなんて求めてないわ。一つのことをダラダラと、ひたすら継続していく。時代とか社会とか、そんな大文字のものを気にかける生き方はしたくないもの。そんな生き方をするくらいなら滅びゆくものたちと共に沈んでしまったほうがいい。
部屋の片隅で古書を貪りながら陰気を振り撒いて梃子でも動かない愚鈍な人でいたいです。
死ぬまでにいろいろなものを見てみたい、という欲求が不思議と自分にはない。世界のどこに行っても所詮、見える景色に大した違いはないのだと思っているからかもしれない。よしもとばななの「TUGUMI」の主人公は、つぐみのことをそのように表現していたような気がする。病弱で狭い世界しか生きることができないが、世界中を旅して回った人よりも多くを知ることができる人。そういう人になるしかない。
この四畳半で見えるもの以外に何があるのか。首狩り族の村に行ってもたぶん、平凡な家族スケッチしか持ってこれないだろう。私にはフィールドワークは無理である。
私にとって旅をする、ということにどんな意味があるのだろう、と考えてしまうと何処へも行けなくなる。せめて謡跡百ヶ所くらいは網羅してもいいだろう、自己目的にするには丁度いい素材だ、と思い定めた。
何年か前、アイルランドに行った時、もうこれほど濃密な時間を旅において過ごすことはないだろう、と悟った。私にとってそこが目的地であるような旅はもうないのだ。根拠は特にない。
その代わり、自分の目が見えなくなる時までに(そういう時が来る、と仮定しての話だが)できる限りたくさんの本を読んでおきたい、とは思っている。音楽は聴けなくともいい。声さえ出せれば。しかし、目が見えない、となると字が書けなくなる、読めなくなる。自分自身の根幹にある「言葉」に対する感度を測るものが失われるのは非常につらい。だからその時が来るまでに、自分の中にできる限りの言葉を蓄えておきたい、という思いがある。
よく、自分の四肢や五感が徐々に喪失していく、という思考実験をする。自分が老いて、身体が欠損していくその刹那を夢見ている。禅の教義には、このような身体欠損の夢想があるようだが、自分の身体が十全でなくなる時を考慮するのは生きていく上で大変重要な心構えであるように思う。なぜならそこで「人間性」が試されるからだ。
私は最近、「老い」を意識することを心がけている。人は死ぬまでにまず老いる(そうじゃない人もいるが)。ある意味、「死」よりも恐ろしいものが「老い」なのである。なぜなら死は体験できないが、老いはその機会があれば確実に体験するものだから。死を想え(メメント・モリ)ではないのである。老いを想え。
こうして言葉を綴り、物事の道理について考えを巡らせることができるのも私が幾分か、正常な判断力と語彙力をまだ保っているからである(その判断の是非は問わないでほしい)。しかし、いつまでも明晰でいられるわけではない。明晰な判断と思考の膂力を失ってもなお、人間は人間であり続けるのか、あるいは何か別のものになっていくのか。私はそこに興味がある。
老いる。ぼんやりとしていく。それを前提とした哲学でなくて何が「思想」であろうか。私は身体の剛健さを前提とした「旅」も「哲学」も信用できない。弱きもの、汚いもの、醜いもの、鈍いもの、ぼんやりとしたもの、が吐き出す言葉と美学。人間が辿り着く場所は結局そこしかあり得ない。
だから私は、若さを信じない。健康を信じない。身体を信じない。旅を信じない。哲学を信じない。
政治家やめる、って言いながら新党作るとかね、もうアニメは作らないと言いながらアニメ作っちゃう人と同じくらいお節介ものの臭いがしますよ。
だいたい人間、60過ぎないと「~をやめる」という発言は信用しちゃならんね。40そこそこの人じゃ、現世に未練たらたらだもの。まして政治家になるような野心家。性欲が有り余ってしょうがないでしょうよ。
でもね、そもそも「政治家」って「職業」なんだろうか?別にウェーバーの著作を引き合いに出すわけでもないけども、政治家というのは「やくざ」とかと同じで、いついつやめる、ということができるようなものではないのだろう。
天性の政治家、というのは政治家でしかあり得ないのかもしれない。政治家という「生き方」しかできない人に対して「政治家」という表向きの表象を与えているに過ぎないのではないか。だから公務員としての身分などは上辺に過ぎない。真実、彼らはその本性が政治家に生まれついているので身分などはどうでもいいのである。それこそ、足を洗う、などということでもなければ政治家をやめることなどできはしないだろう。それは「出家」するような覚悟を伴うのではないか。
40そこそこの血気盛んな働き盛りの男に「出家」を迫るのは少々酷というものである。政治家としての彼の評価はともかくとして、彼に政治家としての進退を問うのは無理があるというものかもしれない。
だいたい人間、60過ぎないと「~をやめる」という発言は信用しちゃならんね。40そこそこの人じゃ、現世に未練たらたらだもの。まして政治家になるような野心家。性欲が有り余ってしょうがないでしょうよ。
でもね、そもそも「政治家」って「職業」なんだろうか?別にウェーバーの著作を引き合いに出すわけでもないけども、政治家というのは「やくざ」とかと同じで、いついつやめる、ということができるようなものではないのだろう。
天性の政治家、というのは政治家でしかあり得ないのかもしれない。政治家という「生き方」しかできない人に対して「政治家」という表向きの表象を与えているに過ぎないのではないか。だから公務員としての身分などは上辺に過ぎない。真実、彼らはその本性が政治家に生まれついているので身分などはどうでもいいのである。それこそ、足を洗う、などということでもなければ政治家をやめることなどできはしないだろう。それは「出家」するような覚悟を伴うのではないか。
40そこそこの血気盛んな働き盛りの男に「出家」を迫るのは少々酷というものである。政治家としての彼の評価はともかくとして、彼に政治家としての進退を問うのは無理があるというものかもしれない。
能楽をやればそこに中世の息吹が感じられるわけではありませんからね。
今我々の知っている能楽的な世界観は多分に近世的な感性の産物ですよ。それが日本人の文化的精神の根幹にあるもの、などと、普遍的な表現が妥当するはずはないのです。
世阿弥の時代の申楽師が体現した美の世界観は近世的な荒々しさとは相いれないものだったかもしれないじゃないですか。というかその可能性が高い。近世的なイデオロギーの部分に無自覚なまま能楽を日本の精神文化の根幹に位置づけようするならば俗的な近世讃美に近づいてしまう。
頭剃ってちょんまげつけてた時代の時代精神より、それ以前の時代の感性のほうが我々にとって理解しやすい、ということもあり得るかもしれない。
和風ゴシックみたいないかにも現代風にアレンジされた和的な表象が近世を飛び越えて中世に近づいていくのは、単なる錯覚などではないのかもしれない。我々は近世的なものを古典的なものと思い込みすぎているだけなのでは。
むしろ、俗的な近世とはかけ離れた、中世的なるものと連続した近世的なるものを我々はまだ十分に捉えることができないでいるのかもしれない。
だから私は現代的な美少年は中世日本においても十分見出せたはずだと思うし、むしろ中世的な美少年は我々から見ても美少年なはずだとかってに妄想しているんですよ。
今我々の知っている能楽的な世界観は多分に近世的な感性の産物ですよ。それが日本人の文化的精神の根幹にあるもの、などと、普遍的な表現が妥当するはずはないのです。
世阿弥の時代の申楽師が体現した美の世界観は近世的な荒々しさとは相いれないものだったかもしれないじゃないですか。というかその可能性が高い。近世的なイデオロギーの部分に無自覚なまま能楽を日本の精神文化の根幹に位置づけようするならば俗的な近世讃美に近づいてしまう。
頭剃ってちょんまげつけてた時代の時代精神より、それ以前の時代の感性のほうが我々にとって理解しやすい、ということもあり得るかもしれない。
和風ゴシックみたいないかにも現代風にアレンジされた和的な表象が近世を飛び越えて中世に近づいていくのは、単なる錯覚などではないのかもしれない。我々は近世的なものを古典的なものと思い込みすぎているだけなのでは。
むしろ、俗的な近世とはかけ離れた、中世的なるものと連続した近世的なるものを我々はまだ十分に捉えることができないでいるのかもしれない。
だから私は現代的な美少年は中世日本においても十分見出せたはずだと思うし、むしろ中世的な美少年は我々から見ても美少年なはずだとかってに妄想しているんですよ。
やっぱり刑事法制より民事法制のほうが遠い世界なんだと思うな。日本人にとっては特に。
刑事はさ、たとえば刑事ドラマやミステリー小説なんかで「真実を探求する」ってイメージがよくも悪くも刷り込まれてるじゃない。誰かがなんとかしてくれる世界、なんだよね。刑事さんや探偵が問題を解決してくれる世界。
民事法制の根幹にあって、日本人にとって一番体得しにくいものが「契約」という観念なんだよ。経済学的には合理的で自立した対等な個人同士がうんたらかんたら、ってやつだよ。誰も何もしてくれない世界、つまり、手前でなんとかする世界。
なんで自立した対等な個人なんてものが存在し得るのか、といえば、信念という「神様」がいるからなんだよ。契約というのは神様に誓うことだ。一人孤独に胸の内の神様に語りかける人だけが契約をなせる。これが難しい。
そういう意味で契約論に着目した内田先生のセンスは正しい方向を向いていたのだと思う。
「売買」と「贈与」の違いなんて、当事者以外に誰が「真実」を判断できるのだ?神に誓った者同士が売買をしたのだと宣誓した時、神ならぬ人はどう判断する?要はそういう世界である。
これって、要するに、「自分に自信がない人を救える人はいない」ということなんだよな。自分自身が何をしたのかもわからない人の「真実」は神のみぞ知る処、なので。
けれどもね、半分認知症患ってるような人の「自信」ほどあてにならないものもない、というのは誰にでもわかる。しかしそもそも神に誓う習慣のない人々が何に真実を委ねるかというと、それは「お上」だったり「世間」だったりする。
「世間」ならともかく、「お上」に委ねられても困るわけです。お上としては、いや、真実は上から降ってくるものじゃなく、貴方の胸の内にあるのですよ、と言うしかないわけで。だから民事法秩序というのは近くて遠いものだなあ、と日々感じるわけです。
刑事はさ、たとえば刑事ドラマやミステリー小説なんかで「真実を探求する」ってイメージがよくも悪くも刷り込まれてるじゃない。誰かがなんとかしてくれる世界、なんだよね。刑事さんや探偵が問題を解決してくれる世界。
民事法制の根幹にあって、日本人にとって一番体得しにくいものが「契約」という観念なんだよ。経済学的には合理的で自立した対等な個人同士がうんたらかんたら、ってやつだよ。誰も何もしてくれない世界、つまり、手前でなんとかする世界。
なんで自立した対等な個人なんてものが存在し得るのか、といえば、信念という「神様」がいるからなんだよ。契約というのは神様に誓うことだ。一人孤独に胸の内の神様に語りかける人だけが契約をなせる。これが難しい。
そういう意味で契約論に着目した内田先生のセンスは正しい方向を向いていたのだと思う。
「売買」と「贈与」の違いなんて、当事者以外に誰が「真実」を判断できるのだ?神に誓った者同士が売買をしたのだと宣誓した時、神ならぬ人はどう判断する?要はそういう世界である。
これって、要するに、「自分に自信がない人を救える人はいない」ということなんだよな。自分自身が何をしたのかもわからない人の「真実」は神のみぞ知る処、なので。
けれどもね、半分認知症患ってるような人の「自信」ほどあてにならないものもない、というのは誰にでもわかる。しかしそもそも神に誓う習慣のない人々が何に真実を委ねるかというと、それは「お上」だったり「世間」だったりする。
「世間」ならともかく、「お上」に委ねられても困るわけです。お上としては、いや、真実は上から降ってくるものじゃなく、貴方の胸の内にあるのですよ、と言うしかないわけで。だから民事法秩序というのは近くて遠いものだなあ、と日々感じるわけです。