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  <title>雑記帳</title>
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  <description>とりあえず日々考えたことを書いていこうと思う。
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  <lastBuildDate>Mon, 07 Jan 2019 12:28:59 GMT</lastBuildDate>
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    <item>
    <title>「欲望の思想」の身体主義と、「身体の工学化」について</title>
    <description>
    <![CDATA[<span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: #f5f8fa;">　私は、「欲望」というのは所謂、「肉食系」の専売特許のようであってはならない、と思っていて、その意味での「欲望の哲学」を再構築する必要があるのではないかと考えている。だから、「欲望会議」と聞いて、草食系男子がそっぽを向くようなものであればそれは概念が狭隘にすぎるんだと。<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: #f5f8fa;">　真の欲望の哲学は、セックスもせず、家の中でごろごろしているような人のためになければならないわけです。セックス中心的な欲望の哲学では、いくら変態になろうとも、真に革命的な思想にはなり得ないのではないかと。セックスは欲望である。しかし、セックス以外の欲望の哲学がなければならない。<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: #f5f8fa;">　法律学だとか社会制度論の重要性はそこにあって、欲望は制度によって形作られる側面がある以上、制度を学ばなければ欲望を理解できない。西洋法制史と精神分析のバックグラウンドを持つルジャンドルの位置付けが重要なのはその点に係ってくるからで、だから千葉さんもルジャンドルを意識している。<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: #f5f8fa;">　私が村田沙耶香に注目しているのも、彼女の文学が「欲望」と「制度」との結びつきを一つの問題としているように感じるからかもしれない。そういう、文学サイドの流れは美学的な関心としてあるのだが、実は制度論的な観点からも興味がある。<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: #f5f8fa;">　「欲望の哲学」にもいろいろあると思うし、それこそバタイユのような消費の哲学から本邦における宮台のナンパ論まで、ざっくりと「欲望」を中心的なテーゼに据えた思想があると思うのですが、欲望の哲学には、欲望する身体、欲望の対象たり得る身体を特権化する傾向があり、そこが選民的でもある。<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: #f5f8fa;">　つまり、欲望の構造には権力が結び付いているわけですが、欲望の哲学はマイノリティに荷担すると同時に、新自由主義的経済体制の勝者に対してもそれを支える役割を果たしてしまうのではないか、という疑念が私にはあるんですよね。<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: #f5f8fa;">　欲望を肯定し、社会の記号を反乱させ、混乱させることで、身体の具体的なコミュニケーションを回復させるのが欲望の哲学の主眼なのだとすれば、そこでは「欲望される身体」を中心とした権力構造が前提とされてはいないだろうか。美しい肉体はやはり、記号の氾濫の中でも美しいのではないか。<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: #f5f8fa;">　欲望の哲学は肉食系の専売特許であってはならない、というのはつまりそういうことで、欲望を開放するなら資本主義的体制の勝者に対してその価値の転倒を図るものではなくては批判的思想にはなり得ないのに、通俗的な消費の哲学ないし欲望の哲学はむしろ勝者に荷担してしまっているのではないか、と。<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: #f5f8fa;">　だから千葉さんが進める思考の方向性が根本的に、新自由主義の勝者たる肉体を賛美するものに過ぎないのならば、そこにはなんら批判性はないのではないのか、通俗的な消費社会論と何が本質的に違うんだ、という話になるわけです。そこまで読み込めているわけではないのですが。<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: #f5f8fa;">　話は変わりますが、例の落合&times;古市対談に対する批判の中で、「身体の工学化」を批判する見解がありましたけど、何をいまさら、という感じではあります。<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: #f5f8fa;">　2000年代の半ば以降に、東浩紀を中心としたグループが『思想地図』の中で展開していた考え方は、アーキテクチャの進化に社会改革を委ねようとする方向性を有するものであり、明確に工学的発想で人間とその社会を構築的に捉える傾向がすでに見られました。<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: #f5f8fa;">　落合さんや古市さんの見方はそうしたゼロ年代半ば以降の言説体系の延長にあるわけです。また、「身体の工学化」というのは「工学の身体化」でもあって、実際に相互領域の浸潤が相当程度に進んできている現状を考慮すると、身体の工学化という発想そのものを批判するのは分が悪いと言わざるを得ない。<br />
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　話がそれましたが、この「欲望の思想」と「身体の工学化」は別次元の話のようでいて、実は同じ一つのパラダイムの中にあるのかなあ、という気がしている。落合さんの専門領域においては「アート」と「技術」の領域横断的な知が模索されているし、ドゥルージアンである千葉さんの哲学の方向性は人間の「皮膚感覚」に訴えてくるものでもある。人間の皮膚感覚のレベルを工学的に分析、構築していくという意味では、両者の方向性は似ていると感じるところがある。<br />
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　現代思想の最前線において、今一番訴求力がある領域は「アート」と「人間工学」の横断領域であることは様々なシーンを見ているとよくわかる。工学的知の台頭という現象はゼロ年代半ば以降に顕著となり、今や現実の社会に実装されつつある。これをフーコー的に揶揄すれば、新たなる権力の誕生ともいえるかもしれないが、それに対する批判の程度は、かつての「監視社会」に対するほど強くはない。<br />
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　その一番大きな理由は、こうした工学的知が、功利主義・快楽主義的思想に裏付けられているからともいえる。皮膚感覚の快楽を追及する観点から、社会や人間のあり方を工学的に設計する在り方が是とされる。大まかに言って、これが今日におけるトレンドであるといえる。より快適に、より心地よい世界を構築するために、我々は皮膚感覚の訴える不快な要素を洗い出し、その解決をアーキテクチャに委ねてゆく。これは一口にいえば、肌感覚主義、皮膚感覚主義であるともいえるかもしれない。<br />
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　これはアンダーグランドの思想領域において隠微な支持勢力を拡大してきた「加速主義的」見方に符合するものがある（「加速主義」については別に検討する余地がある）。技術の進歩に人間社会の行く末を委ねようとする発想は必ずしも、かつてのようなリベラルな様相を帯びてはいない。むしろ、身体の工学化は新自由主義的観念と親和性が高い。快楽を中心に据える思想は資本主義社会の勝者の凱歌となる。しかし、我々は快楽を追求しなければならない。いかにしてこのパラドックスを解決するか。これが課題となるはずである。</span>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://hosinoseiya.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E3%80%8C%E6%AC%B2%E6%9C%9B%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%BA%AB%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E3%80%81%E3%80%8C%E8%BA%AB%E4%BD%93%E3%81%AE%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E5%8C%96%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6</link>
    <pubDate>Mon, 07 Jan 2019 12:28:59 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>大学能楽サークルには「内向き」な人たちが集まることについての考察から、「不器用な人たち」の文化史まで</title>
    <description>
    <![CDATA[<p class="MsoNormal"><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　能楽サークルには確かに内向的な人が多い気もする。けれど、能楽は「演劇」なのだとすれば、少なくとも外側に向かうエネルギーは放つ必要がある・・・。が、これも複雑な話で、能楽はある意味、「内向きの表現」にこそその美学の一端、というより本質がある気がするのである。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　しかし「内向きの表現」がその本質であるからといって、内側に込めるだけでは表現として成立しないのであって、さように能楽的な身体というのは緊張を孕んでいる。内向的な人がそのまま能楽的な表現に向いているのではなく、むしろ情念のベクトルを発揮しつつ、それを内側に込めなければならない。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　元々情熱家なタイプの人であれば「内側に込める」段階が重要になるのだが、元々内向的な人だとそもそも情念を発露させる訓練を経た後、それを内に込める段階に達する必要があるために、情熱家タイプよりむしろ「手間がかかる」と言えなくもないのではないか、と常々思っていて。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　だから大学能楽サークルに集まってくるタイプのマジョリティは実際のところ、世間的にはマイノリティなのだと思うけども、そもそも大学能楽サークルに集まりやすいタイプの人が能楽という技芸に向いているのかどうか、というと確信が持てないのである。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　どちらかというとスポーツマン気質の人のほうが向いている気がするのだが、スポーツマン気質の人というのはまず大学能楽サークルには入らない。（例外はある）しかし、であるがゆえに、大学能楽サークルの牧歌的な平和が実現しているとも言えるわけで、これに関してはなんとも言えない。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　よく私は、自分みたいな人間ばかりになれば世の中平和になるのになあ、と考えたりするのだが、私みたいな人間ばかりじゃないから私みたいな人間が重宝される場所があるわけで、これは当たり前の話なのである。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　大学能楽サークルにおける内向気質、の話に絡めると、仮に能楽的な身体表現に不向きな人材が大学能楽サークルに供給されてくるにしても、それは能楽文化全体にとってプラスとかマイナスとか、そういう次元で捉えることはない。そういうもんだ、と思うべきだし、そこが大前提になるわけです。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　人類の文化史においては、そもそもそれに不向きな人たちが当該文化を担ってきた領域というものがあるのではないか。というより、およそ文化なるものは、そうした「不器用な人たち」によって担われてきたのではないか。これは逆説的なことかもしれないが、「器用な天才」が必要とされるのは、革命的瞬間においてなのであって、文化史の長い時間スパンの中ではそうした革命的瞬間というのはごく稀にしか訪れない。長く続く平時においては、不器用ながらも「型」に忠実に自分を合わせていこうとする不器用な人たちこそが、その担い手になるのではないか。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　そもそも芸事に向き不向きがあるのか、と私は思っている。ある、といえばあるし、ない、といえば、ない。それが私の見方です。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　たとえば、柔道はもはや世界的スポーツであり、もはや日本のお家芸ではないとすら言える。しかし柔道は日本人に向いていない、という人はいない。あるいは、クラシック音楽は西洋で生まれた西洋人のための文化であるなどとは、もはや誰も言わない。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　最適化された、とは、ある視点から見た見方に過ぎない。その技芸の物理的本質に沿った特質を有する人材だけがその技芸の継承者として相応しいとすれば、人類史において出現した大抵の技芸はもはや滅んでいることだろう。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　その本質をどう見るか、という問題もあるし（その技芸の「本質」なるものは観察者によって見方が変わるだろう）、そもそもある特質がある本質に直接的に結び付くためには様々な前提がいる。指が長ければピアノに長じる可能性は高まるかもしれないが、予期せぬ事故で指先を失う可能性も高まるだろうし、指が長い人が同時に器用でもある保証などないのである。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　ある特質を有する人材を選択的に特定の技芸の継承者に選抜する試みは、文化的な「遺伝的多様性」を損なう危険を孕みもする。そうでなくとも、能楽は「間口が狭い」のである。せめて狭い間口を常時開けておくくらいの寛容さと不用心は持ち合わせていたい。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　能楽という技芸に本来的に不向きな人たちが能楽全体の裾野を広げている、という部分こそが、能楽の可能性であり、面白さであるし、思考の大前提にある。その大前提を踏まえなければ、能楽の身体を受け入れることはできない。その身体は、不向きの先にあるからである。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　芸事に限らず、物事の向き不向きというのはそう単純なものではない。不向き、は避けるべきアクシデントなのではなく、むしろ、常態なのではないか。我々はみな、常に不向きな身体で現実と向き合っていて、ときおり現実と身体がマッチングするに過ぎない。</span><span lang="EN-US"><br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　不向きは常態なのだから、不向きな身体に慣れてゆけばよいと思う。それが能楽的な身体なのではないか。不向きな身体であることを思い出して、不向きな人生を生き直す。「型」がある芸術は、みなそうだと思う。</span><span lang="EN-US"><br />
<br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　能楽における身体表現の高度な抽象化は、能楽的身体を「人形的身体」にしているのだが、人形的身体とは、この「不向きの身体」を現出させる装置でもある。人形的身体とは、不向きの身体の具象化であるとも言える。故に、人形とは我々の「常態」なのかもしれない。（これは面白い話になってきた）</span><span lang="EN-US"><br />
<br />
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</span><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">　人形が我々の似姿であるのは、不器用な現実の我々の似姿であるからではないだろうか。人形がぎこちないのではない。我々がぎこちないのである。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://hosinoseiya.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E8%83%BD%E6%A5%BD%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%80%8C%E5%86%85%E5%90%91%E3%81%8D%E3%80%8D%E3%81%AA%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%8C%E9%9B%86%E3%81%BE%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB</link>
    <pubDate>Sat, 10 Nov 2018 08:27:39 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>株主の共同相続と「準共有」</title>
    <description>
    <![CDATA[<p style="margin: 0px 0px 6px; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;">　よくある疑問だと思うのだけど、株主総会を開催した時点で株主名簿上の株主の一人に共同相続が生じている場合、当該株主の共同相続人は「議決権を有する株主」としてみなされるのか、あるいはどのように取り扱われるのか、という問題がある。<br />
<br />
<br />
<br />
</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;">　まず、大前提として、株主に相続が生じた場合、株式は相続分に応じて当然に分割されるわけではなく、相続分に応じた「準共有」状態になる。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;"><br />
<br />
<br />
　会社法第１０６条では、株主が準共有の状態にある場合の取り扱いが規定されており、</p>
<div class="text_exposed_show" style="display: inline; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;">
<p style="margin: 0px 0px 6px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
「株式が二以上の者の共有に属するときは、共有者は、当該株式についての権利を行使する者一人を定め、株式会社に対し、その者の氏名又は名称を通知しなければ、当該株式についての権利を行使することができない。ただし、株式会社が当該権利を行使することに同意した場合は、この限りでない。」</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
　とされている。<br />
<br />
<br />
　<br />
　準共有状態において権利を行使する者の定め方については、共有物の管理行為として民法第２５２条が適用されるので、持分に従いその持分価格の過半数で決定する。共同相続により生じた株式共有の場合にも、相続分に応じた持分の過半数で権利行使者を定め得るとする判例があるので（最判平９・１・２８判時１５９９号１３９項）、基本的には共有者の持分多数決で権利行使者を決めればよい。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
　権利行使者を一人決めなければ、株主総会において株主としての権利を行使することができないので、株主総会の成立要件、および決議要件の「議決権を行使することができる株主」（同第３０９条等）にこれら準共有者を含める必要はないと考えられる。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
　一方で、１０６条但し書にあるように、会社が同意した場合はどうか。判例では、民法の共有の規定に従った権利行使者の決定がなされていない場合、会社が同意をしても権利行使自体は適法にならないとしている（最判平２７・２・１９民集６９巻１号２５項）。また、会社の方から議決権を行使する者を決めることも許されない（最判平１１・１２・１４判時１６９９号１５６項）。なので、共同相続人間で権利行使者を決めなければ議決権の行使は宙吊りになるわけですね。会社の方から一方的に、「貴方が行使してください」と言うことはできない。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
　ただし、登記申請の際に添付する株主リストには「議決権を有する株主」を記載しなければならないわけですが（商業登記規則第６１条３項）、ここでは「議決権を行使できるか否か」は問題とされていないので、株主総会開催時において会社が共同相続人について知っていたか否かで記載の方法が変わってくることに注意（法務省HP参照）。仮に総会開催時において共同相続人が権利行使者を会社に通知しておらず、議決権を行使できなくとも、これらの者を「議決権を有する株主」として扱うのである。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
　発行株式数が少数の会社において株主の一人に共同相続が生じたような場合で、実質的には権利行使者の決定が経営承継者を決定することを意味するような場合においても、この考え方は踏襲されるので、若干の疑問は残るわけだが（このような場合においては、共同相続人全員の同意で決めるべきとする考え方もある。江頭憲治郎『株式会社法（第６版）』p.123.を参照）、判例の見解を踏襲するならこのような場合においてもあくまで共有者の管理行為とみなして持分多数決によって決めることができるとされる。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
　いずれにせよ、中小企業の少数株主の共同相続には要注意である。後日の紛争を避ける意味では、遺産分割と同様の考え方で共同相続人の総意で権利行使者を決定するのが妥当かもしれない。無論、相続人間が不仲であれば話は纏まらないので、記事にある通り、あらかじめ遺言で権利行使者を決めておくのも一つの方法である。また、共同相続が生じた場合の権利行使者を定款で予め定めておく方法も有効である。</p>
</div>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://hosinoseiya.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E6%A0%AA%E4%B8%BB%E3%81%AE%E5%85%B1%E5%90%8C%E7%9B%B8%E7%B6%9A%E3%81%A8%E3%80%8C%E6%BA%96%E5%85%B1%E6%9C%89%E3%80%8D</link>
    <pubDate>Tue, 25 Sep 2018 10:55:41 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>美容師さんと私</title>
    <description>
    <![CDATA[何を隠そう、私は美容室という場所が好きである。<br />
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<br />
特に何が好きだというわけでもないのだけど、あの空間にいる時間というか、何も考えずに淡々と心地よい気分になっていくのが実に気持ち良い。髪も切ってくれるマッサージ店のようなもの、だと思っている。<br />
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<br />
最近はスカイツリーが見える場所にある美容室に通っていて、そこに通い始めてからそろそろ一年経つのだけど、最近になって私の頭を手掛けてくれた美容師さんが、実に感じのいい人なのである。<br />
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<br />
もちろん、今までの人が感じが悪かったわけではない。満足していなかったわけでもない。ただ、今回担当になってくれた人は非常に優秀で、もっと言うと、私が今まで出会った美容師さんという人種の中で最も優秀だと感じている人なのである。<br />
<br />
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<br />
<br />
何をもって優秀なのか、というか私にそれを語る資格があるとも思えないのだけど、とにかくその人はいい。彼はこれからどんどんいい仕事をしていくんだろうな、と思える、そんな人。<br />
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<br />
<br />
まず、話し方がいい。客を心地よくさせるトーンとスピード。話術が巧みであるというよりも、人を心地よくさせる話し方に長けているのである。これは私の考える「よい美容師」の第一条件である。しゃべりまくる人は嫌いだし、かと言ってあまり陰気臭いのも不安になる。ちなみに私はあまり話さない。美容院に行くと死ぬほど話さない。只管沈黙して寝たふりをし続ける私でも彼の有能ぶりはわかる。なぜかというと、妻が彼との会話の内容を私に話してくれるからである。（夫婦共に同じ美容室に通っていて、妻も彼を指名するのである）<br />
<br />
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外国人と付き合っているらしい、最近喧嘩したらしい、ハネムーン的なものは沖縄になるらしい、渋谷のいいとこに住んでるらしい、とか個人情報ダラダラなのだけど、そんなところからも彼の有能ぶりが伝わってくる。私は妻の話を通じて得た彼の情報を携えて、何食わぬ顔をして彼を指名するのである。そして終始沈黙し続けるのである。<br />
<br />
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<br />
<br />
髪を切る時に客のオーダーを聞くのは当然として、相手の頭の中にあるイメージを掴み取るのが実に上手いと感じる。たいしたオーダーもしていないのに、細部まで、かなり自分のイメージに近い形にもっていってくれる。更に、要所要所できちんと声をかけてくれる。～するから～しますね～、とか、～とバランスをとるためにこっちも揃えますね～、とか、とにかく仕事が丁寧である。丁寧で、しかも声が優しいので気持ちよくなってしまう。新手の風俗みたいだ。<br />
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<br />
こんなに優れた美容師さんを私みたいなものが指名してよいのだろうか、と思ったりもするし、話術が巧みなのに私みたいな朴念仁ではさぞかし仕事に張りがないだろうな、と余計な気を使ってしまいそうになるが、そこはぐっとこらえて朴念仁に徹する。意地でも会話はしない。それが私のプライド。最近では別の美容室にも出張するようになったらしい（これも妻からの情報である）。やはり売れっ子は違うなと思うし、ますます私のようなものが指名しずらくなるのだろうが、そこはやはり彼を指名し続ける。もうやめてくださいと言うまで指名し続ける。<br />
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<br />
彼の商業価値を考えると美容室の代金は実に安い。以前、ツイッターで、オーストラリアなどと比べて日本の美容師がいかに安く買いたたかれているか、と言ったつぶやきを目にしたが、それもわかる。客のイメージを的確に掴み、優れた話術と技術を持つ彼のような美容師さんはもっとその専門性を評価されてしかるべきだと思う。美容師というよりも、「美容士」という名称の方が相応しい&hellip;&hellip;。<br />
<br />
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&hellip;&hellip;などと少し真面目なことを書いてしまったが、基本的に私は美容室で会話はしない主義である。その辺で会った人よりも、美容師さんとする世間話のほうがハードルが高いと感じる。何故かというに、まず自分の髪をいじられているので、自分の内面のイメージを探られているような気がして面映ゆいというのもあるし、営業トークに乗せられていい気になってしまう自分が痛々しいというのもあるし、そもそもこれから何度も利用することになるのにプライベートなことをダラダラ曝け出してしまうことに抵抗がある（他人のプライベートは気になるくせに）、というのもある。などと、いろいろ書いたが、要するに世間話というものがそもそも苦手なのである。<br />
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<br />
<br />
美容師さんに自分の美的イメージを伝える面映ゆさ、というのは、洋服屋さんで店員に自分の好きな服装を伝える時の面映ゆさと同形のものだろう。美的イメージというものは、こうなりたい、こうでありたい、という赤裸々な欲望そのものだから、そういう内面的なテーマを明け透けに話すのは難しい。そういうことに抵抗がない人は、まあ、どうでもいい。気にしない人は気にしないのだ。しかし、なぜ美容室に行くと世間話をしなければならないのだろう。<br />
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<br />
世間話というものが難しいのは、ありきたりなことをありきたりな感情を交えて話さなければならないからかもしれない。今日は暑いですねえ、とか、三連休どこ行くんですか、とか、趣味とかあるんですか、とか。暑い日は暑いに決まっているし、休みの日は家でゴロゴロして本を読んでいるのである。こんなクソつまらない情報をあえて共有しなければならない理由とはなんだろうか、と考えてしまう。いや、それは話のさわりにすぎないのだ、話をどんどん展開していけばそれなりに面白くなるのだ、と、そりゃあ、そうかもしれないが、そのために私の貴重な瞑想の時間をくだらない世間話を面白く展開していくためのエネルギーに使ってしまっていいのだろうか。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
思うに、世間話が好きな人というのは口をついて自然にそういう話ができる人たちなのである。私は口が堅いので知り合いともなかなかそういうフランクな話はしない。基本的にむっつりスケベであるし、むっつりスケベであることにそれなりに誇りと矜持を持っている。むっつりスケベで何が悪い。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
美容師さんは好きだが美容師さんとの会話は好きではない。それとこれとは別の話だ。私は彼を指名し続けるし、意地でも会話はしない。]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://hosinoseiya.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E7%BE%8E%E5%AE%B9%E5%B8%AB%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%A8%E7%A7%81</link>
    <pubDate>Sat, 22 Sep 2018 10:28:06 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>働き方改革と管理職</title>
    <description>
    <![CDATA[<span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: rgba(230, 236, 240, 0.7);">働き方改革で管理職が損をしているという記事。人事管理や労務管理が厳しくなり、管理職へのストレスが強まっていることについては巷でもよく聞かれるのだが、個人的には、「管理職になるのは損」という風潮はそれほど長く続かないのではないかと考えている。理由は以下の通り。<br />
<br />
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<br />
働き方改革だって、見方を変えれば労働資源の「選択と集中」ですわな。金があれば選択も集中も必要ないわけで。働き方改革で豊かな生活を手に入れる人がどれだけいるでしょうかね。時間と金はトレードオフなのです。<br />
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<br />
<br />
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<br />
</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: rgba(230, 236, 240, 0.7);">日本の場合、若いうちの給料が少ないから本来若手には残業してお小遣いを稼ぐインセンティブがあるはずなのだけど、残業しても残業代を出さない会社がたくさんあるせいで働き方改革の主張が勢いを持ってしまうのですよね。だから、いい会社に勤めている人は残業できなくなるせいで手取りが減る、それに不満を持つ人も多いかと思います。働き方改革は「下に合わせる」改革なのです。少し前に、日本郵政が転勤のある正社員の福利厚生を転勤のない正社員の水準に引き下げる方針を示して話題になりましたけど、あれと実質的に似たような状況が働き方改革の名の下に正当化されるわけです。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: rgba(230, 236, 240, 0.7);">働いたら働いた分だけお金が貰える会社にいる人は働き方改革をよく思っていない人が多いかもしれません。しかし世の中マジョリティの意見は強いので、そういう条件のない企業に勤めている人たちの利害と資本家の利害とが一致してしまうわけですね。上流サラリーマンを中流サラリーマンにならす改革だと、私は思っています。<br />
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<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: rgba(230, 236, 240, 0.7);">残業できなくなったからお金がない、という上流サラリーマンの声に対して経営者が次に出してくる手口は、成果を上げればその分給料を上乗せしよう、です。働き方改革は成果主義の一層の導入と本来セットなのですよ。残業して小遣い稼ぎをするか、成功報酬のために終りのない努力をするか、どっちがしんどいか？<br />
<br />
<br />
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<br />
<br />
まあ、考えてもみてください。プレミアムフライデーは労働者を幸せにしたか？月末金曜のクソ忙しい時期に早く仕事を終わらせる努力をしても得られるのは「時間」に過ぎません。お小遣いが貰えるわけでもないのです。それよりかは、いつもより残業して来月の懐を少しでも暖めたほうがいい、と私は思いますけど。時間を食って満足なんかできやしないのです。<br />
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<br />
</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: rgba(230, 236, 240, 0.7);">だから、管理職がしんどくなっている、という姿は過渡的な形態であって、こうなると管理職労働者にとっても、経営者にとっても、最善の選択肢は管理職手当の拡充と管理職業務の選択と集中となる。これからは、管理職がつらい、のではなく、管理職にならないとつらい、という時代になっていくのではと思います。手当ががっつりついた管理職か、残業しない（できない）かわりにお小遣い程度の給料に甘んじるヒラ労働者か。二極化するでしょうし、それが経営側にとって望ましいのです。<br />
<br />
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<br />
</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: rgba(230, 236, 240, 0.7);">ヒラ社員でもそこそこ満足できる、のは、基本給の上昇率が大きくて残業することで得られる果実が管理職手当を貰う果実より多いから。しかし基本給の上昇率が低く抑えられ、残業も抑制されるとなると、それなりの生活を得るためには管理職を目指すほうがよいというインセンティブが働くようになる。<br />
<br />
<br />
<br />
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<br />
</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: rgba(230, 236, 240, 0.7);">こうして管理職になることのインセンティブを多くつけて、ヒラ社員に留まることのメリットを削っていく方向へ向かうのが、働き方改革の必然的な趨勢になっていくと思います。だから「働き方改革」とは、労働者の顔をした資本家のスローガンだと、私は見ています。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: rgba(230, 236, 240, 0.7);">残業は悪だ、という声が高まれば高まるほど労働資源の選択と集中を進める政策に支持を与えることになる。もちろん、無駄な残業なんてしないほうがいいに決まっている。しかし結果としては、多数派の労働者の賃金上昇率を低く抑える政策を正当化する声に繋がってしまっているのが現状ですね。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: rgba(230, 236, 240, 0.7);">賃金上昇率の「操作」疑惑も、厚労省の焦りが見え隠れしているように思うのですよね。自分たちが掲げる旗標が自分たち自身の政策目標の足をひっぱりかねないことに、中の人たちも気づいていないわけはないでしょう。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: rgba(230, 236, 240, 0.7);">女性活躍推進が是非とも必要とされているのも、見も蓋もない話をすれば、働き方改革の「成果」によって非管理職労働者の実質賃金上昇率が抑制されることに対する保全策という見方もできる。シングル労働者の保全策は子育て支援政策との兼ね合いもあってどうしても優先順位が低くなりがち。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: rgba(230, 236, 240, 0.7);">しかし見方を変えると、シングル労働者の賃金上昇を求める声こそ、真に労働者全体の利益を最大化することに貢献するわけです。世帯収入が個人の労働成果を覆い隠してしまう共働き世帯の声はともすればヒラ社員の賃金上昇率を抑えようとする経営者の利害と一体化してしまう。だからシングルの声が重要。<br />
<br />
<br />
<br />
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</span><span style="color: #14171a; font-family: Arial, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', 'Hiragino Kaku Gothic Pro', Osaka, メイリオ, Meiryo, 'ＭＳ Ｐゴシック', 'MS PGothic', sans-serif; white-space: pre-wrap; background-color: rgba(230, 236, 240, 0.7);">大事なことは、働き方改革は基本給の上昇とセットでなければ真に労働者の幸福最大化には繋がらない、ということを主張し続けることです。基本給上昇を等閑視した残業悪論は百害あって一利なしと、私は考えます。<br />
<br />
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<br />
<br />
<br />
いずれにせよ、「働き方改革」は労働力の選択と集中のための方便です。早く帰るためにヒラ労働者の労働密度は極限まで高められ、結果として手に入れるのはより強度の疲労感と割安な賃金です。</span>]]>
    </description>
    <category>雑記</category>
    <link>https://hosinoseiya.blog.shinobi.jp/%E9%9B%91%E8%A8%98/%E5%83%8D%E3%81%8D%E6%96%B9%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%81%A8%E7%AE%A1%E7%90%86%E8%81%B7</link>
    <pubDate>Sun, 16 Sep 2018 18:15:41 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">hosinoseiya.blog.shinobi.jp://entry/52</guid>
  </item>
    <item>
    <title>医療法人の「従たる事務所」について</title>
    <description>
    <![CDATA[<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">医療法人を設立するにあたっては、定款又は寄付行為において、「その開設しようとする病院、診療所、介護老人保健施設又は介護医療院&hellip;&hellip;の名称及び開設場所」（医療法第４４条２項３号）、「事務所の所在地」（同４号）などを定めなければならないとされており、「病院・診療所」と「事務所」とは概念的に区別されている。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US"><br />
<br />
<br />
&nbsp;</span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">従って、病院や診療所があるからそこに「従たる事務所」もあるとは限らないし、逆も然りなわけです。（もっとも、病院がない場所には通常、事務所は置かない。）</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal"><span lang="EN-US"><br />
<br />
<br />
&nbsp;</span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">だから、病院を新たに設置する場合に必ず「従たる事務所」を置かなければならないというわけではない。複数の病院を設置している医療法人でも従たる事務所は置いていない場合は多い。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"><span lang="EN-US"><br />
<br />
<br />
&nbsp;</span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">ここでいう「従たる事務所」とは、株式会社でいうところの「支店」のようなもので、独自の指揮命令系統を持ち、主たる事務所とは独立して組織的業務を行うことのできる実体を備えていることを要する。また、株式会社の支店の場合は、業務執行権を持つ取締役の決定で設置することが可能であるが、社団たる医療法人の従たる事務所は、定款の絶対的記載事項なので、その設置や廃止には社員総会の決議を要し、所管官庁への届出も必要になる。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"><span lang="EN-US"><br />
<br />
<br />
&nbsp;</span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">なお、通常、医療法人の定款（寄付行為）の変更は、都道府県知事の認可を受けなければ効力を生じないとされているので（同法第５４条の９、３項）、病院や診療所を新たに設置したり、その所在地を変更する場合には、所管官庁の認可が必要になり、定款変更を所定の機関で決議し、認可を得て、初めて変更の効力が生じる。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"><span lang="EN-US"><br />
<br />
<br />
&nbsp;</span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">が、これには例外があり、事務所の所在地と、公告の方法を変更する場合においては、認可がなくても効力が生じるとされている。（医療法施行規則第３３条の２６）</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"><span style="font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: 'ＭＳ 明朝'; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"><br />
<br />
<br />
<br />
<br />
　従って、従たる事務所を設置するだけなら、定款や寄付行為の変更決議だけが必須であり、認可は必要ないわけです。（ただし、所管官庁への「届出」は必要であることに注意。）</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></p>
<p class="MsoNormal" style="text-indent: 10.5pt; mso-char-indent-count: 1.0;"><span lang="EN-US"><br />
<br />
<br />
&nbsp;</span></p>
<span style="font-size: 10.5pt; mso-bidi-font-size: 11.0pt; font-family: 'ＭＳ 明朝',serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin; mso-bidi-font-family: 'Times New Roman'; mso-bidi-theme-font: minor-bidi; mso-ansi-language: EN-US; mso-fareast-language: JA; mso-bidi-language: AR-SA;">　法令上は、あくまで「病院」と「事務所」とは別個の概念である、という点が重要ですし、特に医療法人の経理担当者や顧問税理士などは、この点を認識しておくことが必要です。</span>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://hosinoseiya.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E5%8C%BB%E7%99%82%E6%B3%95%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%80%8C%E5%BE%93%E3%81%9F%E3%82%8B%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%89%80%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6</link>
    <pubDate>Wed, 11 Jul 2018 11:45:58 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>マンション管理組合の「理事全解任」と業務委託。</title>
    <description>
    <![CDATA[<p style="margin: 0px 0px 6px; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;">　某不動産会社の人と、法人化したマンション管理組合に管理会社を役員として就任させることはできないよね、っていう話をしていた。<br />
<br />
<br />
<br />
</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;">　ここで言う、「法人化したマンション管理組合」というのは、区分所有法（建物の区分所有等に関する法律）第４７条１項に規定されている管理組合法人のこと。管理会社が実質的な管理業務を一括して引き受けているのだから、管理組合法人の理事は名目上の存在に過ぎなくなり、登記簿に公示する必要性も必然性もなくなるのだから、理事を全員退任させて、代わりに当該管理会社を役員として就任させることは可能かどうか、という趣旨で、当然、それはできない、ということは相手もさすがにプロなので、できない、という話はそれとなく理解している。<br />
<br />
<br />
<br />
</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;">　なぜかと言えば、同法第４９条において、「管理組合法人には、理事を置かなければならない。」とされており、代表権を持たない平理事であっても、全員退任はできない。また、会社などの「法人」は理事に就任できない、という明文の規定はないが、解釈上、理事の資格要件は一般社団法人の「理事」と同様の扱いであるべきとされているから、管理会社<span class="text_exposed_show" style="display: inline; font-family: inherit;">が管理組合法人の理事として就任することもできないからである（『基本法コンメンタール――マンション法――』日本評論社など参照）。<br />
<br />
<br />
<br />
</span></p>
<div class="text_exposed_show" style="display: inline; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;">
<p style="margin: 0px 0px 6px; font-family: inherit;">　となると、世間的には、管理会社に管理を一括委任しているマンション管理組合と管理会社との関係はどうなっているのだろうか、疑問に思う向きもあるかと思うが、殆どの場合、国土交通省が定めている「マンション標準管理規約（以下、「標準管理規約」）」及び「マンション標準管理委託契約書」が用いられている。<br />
<br />
<br />
<br />
</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;">　そもそも、区分所有法上、管理組合を法人として登記する義務はない。管理組合を法人化するかどうかは任意であり、区分所有者の総意で決めることである。同法４９条において、理事を置かなければならない、とされているのは、あくまで区分所有法上の「管理組合法人」として登記しているものだけである。日本全体として見れば、管理組合法人として登記されているマンション管理組合の方が例外的であり、日本の殆どのマンションでは法人化していない管理組合が組織されているわけである。<br />
<br />
<br />
<br />
</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;">　あまりに人口に膾炙した表現なのであらためて考えてみる人も多くはないと思うのだが、そもそも「管理組合」という表現自体、区分所有法には存在せず、同法第３条においては「区分所有者の団体」という表現が用いられているだけである。では、世間的にいう、「管理組合」というのはどこから来た表現なのかというと、マンション管理士の資格や管理業者の登録制度を定めている、「マンションの管理の適正化の推進に関する法律」の第２条、及び、国土交通省が策定している「マンション標準管理規約」上の表現として用いられているものなのです。<br />
<br />
<br />
<br />
</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;">　同様に、不動産会社の社員などが業務上よく用いる「理事」とか「理事会」というのは、「標準管理規約」上の表現を指して言っている場合が多い。標準管理規約があまりに普及しているために、大本の根拠法令である区分所有法上の表現よりも、標準管理規約上の表現の方が一般に広く用いられているわけです。区分所有法上は、理事は管理組合法人にしか置かれない機関ですし、「理事会」については何の規定もありません。逆にいうと、標準管理規約上の「理事」や「理事会」というのは、あくまで「規約上の役職」に過ぎず、法定の役職名ではないわけですね。<br />
<br />
<br />
<br />
</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;">　冒頭の話に戻すと、「理事を全員解任して管理業者を選任する」ということの意味は、管理組合法人でない、マンション管理組合が、その規約上の役職をすべて解いて、管理業者に管理業務を一任する契約を結ぶ、という意味として解釈するなら、それは当然可能ですね、という話になる。もともと法定の機関ではないのだから全員解任してもまったく問題がない。ところが区分所有法上の管理組合法人となると、話が違ってくる。<br />
<br />
<br />
<br />
</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;">　もし仮に、既存の管理組合法人が理事を全解任して、管理業者に業務を一任したい、という趣旨であれば、法定機関である理事の全解任はできないから、法人の解散を決議して、通常の管理組合に戻った上で、管理規約上の理事を全解任して業務を全部委託する、という形になるだろう。<br />
<br />
<br />
<br />
</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;">　なぜ不動産会社や管理組合が管理会社に業務を委託するにあたり、理事を全解任したがるのかと言えば、まず、理事のなり手がいないこと、標準管理規約において理事長は区分所有法上の「管理者」とされているため、第一義的には管理業務の責任を負わなければならない立場にあること、などがあり、その負担を避けたいという意図がある。法人化していない管理組合ならば理事の全解任は規約に反しない限り可能であり、管理業務の一括委託も特に否定されていないことから、このような形態は今後も増えていくことが予想される。この点、管理組合法人の理事に管理会社などの「法人」が就任できるようにするような法改正も、立法論としてはあり得るかもしれない。</p>
</div>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://hosinoseiya.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E7%AE%A1%E7%90%86%E7%B5%84%E5%90%88%E3%81%AE%E3%80%8C%E7%90%86%E4%BA%8B%E5%85%A8%E8%A7%A3%E4%BB%BB%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%A5%AD%E5%8B%99%E5%A7%94%E8%A8%97%E3%80%82</link>
    <pubDate>Wed, 13 Jun 2018 11:42:27 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>「異議を述べた債権者はいない」ということの意味</title>
    <description>
    <![CDATA[<p style="margin: 0px 0px 6px; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;">　昨日は、債権者保護手続きの話が少し出たので、今日は実務上の見過ごされがちな留意点について少しコメントしてみます。<br />
<br />
<br />
<br />
</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;">　合併や会社分割などの組織再編においては、債権者を保護するための手続きが法定されていることは周知のとおりですが、具体的なM&amp;Aのプロセスにおいては、債権者も含めた関係者と緊密にスケジューリングを重ねながら進めていくことが通常ですので、組織再編の効力発生日間際になって債権者から突然「異議」が出されるような事態は、一般に考えられているほど多くありません。事前の段階で、こうした組織再編行為について、銀行などの債権者とも交渉を重ねて、議論が熟していることが通常ですので、土壇場になって「不意打ち的に」知れたる債権者から異議が出されるような事態はむしろ一般的ではないのです。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;"><br />
<br />
<br />
　組織再編について異議を述べることができる債権者がいる場合、会社は、官報による公告と債権者に対する個別の催告をしなければなりません（会社法789条など）。そして、異議を述べた債権者がいる場合には、「当該債権者に対し、弁済し、若しくは相当の担保を提供し、又は当該債権者に弁済を<span class="text_exposed_show" style="display: inline; font-family: inherit;">受けさせることを目的として信託会社等に相当の財産を信託しなければならない。ただし、当該吸収合併等をしても当該債権者を害するおそれがないときは、この限りでない。（同法789条5項）」と、されています。</span></p>
<div class="text_exposed_show" style="display: inline; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;">
<p style="margin: 0px 0px 6px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
　登記申請の段階においても、異議を述べた債権者がいない場合にはその旨を会社代表者が申述する必要があります（松井信憲『商業登記ハンドブック（第3版）』p.553.）。異議を述べた債権者がいる場合には、債権者の異議申立書と、債権者作成の弁済金受領書、担保契約書又は信託証書等が添付される必要があります（平9・9・19民四1709号通達）。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
　然しながら、仮に異議申し立てがなされても、「債権者を害するおそれがない場合」にはこれらの弁済、担保提供行為も必要ではありません（上記条文参照）。さて、ここで問題となるのが、どういった場合に「債権者を害するおそれがない場合」と言えるのか、という問題です。実務上の考え方としては、会社の資産状況、経営状況が良好であって、そのキャッシュフローに比較して異議を述べた債権者の債権額が少額である場合や、十分な担保が提供されている場合（森・濱田松本法律事務所編『組織再編（第2版）』（新・会社法実務シリーズ・９）pp.262-263.）、合併後の会社の財務内容に鑑みて当該債権が弁済を受けることが確実な場合に加えて、合併前から債権者に対して債務全額を弁済する可能性がないところ、合併をしてもその可能性がより低くなることはない場合なども含まれるとされています（玉井裕子ら編『合併ハンドブック（第1版）』p.203.）。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
　「債権者を害するおそれがない」ことの立証責任は当該会社が負います。吸収合併の事前手続きにおける書面備置期間には、合併契約書の他、会社法施行規則182条1項5号（消滅会社）及び、同施行規則191条1項6号（存続会社）が定めている、「債務の履行の見込みに関する事項」を記載した書面を本店に備え置かなければならないとされていますが（会社法782条1項1号、同法794条1項）、この事前開示事項を示しただけでは、必ずしも個別の債権者を害するおそれがないことの立証をしたことにはならないとされています（江頭憲治郎『株式会社法（第6版）』p.875.）。実務での取り扱いとしては、十分な被担保債権額を有する抵当権の登記事項証明書や、異議を述べた債権者の債権額、弁済期、担保の有無、合併当事会社の資産状況、営業実績等を具体的に適示し、債権者を害するおそれがないことを会社の代表者が証明した書面を添付する必要があります（平9・9・19民四1709号通達）。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
　債権者が異議を述べる、ことの実務上の意味についてももう少し掘り下げてみます。前述したように、M&amp;Aのプロセスにおいては、債権者も巻き込んで入念な話し合いの場が複数回に亘って設けられ、その流れの中で債権者と合併当事会社との間で了解事項が形成されていくのが普通です。当然、会社債権者としては、個別催告を受けて初めて組織再編の計画について知るのではなくて、事前の話し合いの場が十分に持たれた上で債権者保護手続きのプロセスを踏むのが普通だと思われます。その上でなお、銀行などの会社債権者が「異議」を申し立てる理由というのは（異議は口頭で行うことも可能ですが、証拠を残すために通常は内容証明郵便で行います。）、事後的に会社の財務状況が悪化していることが判明した場合や、合併手続きに瑕疵があった場合に備えて、当該組織再編行為の無効を訴える前提を整える意味合いがあります。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
　というのも、会社法828条2項においては、当該組織再編行為の無効を主張することができる債権者は、当該組織再編行為について「承認をしなかった債権者」であるとされているからです。つまり、債権者としては、事後的にリスクを負うことを避ける意味でも内容証明郵便で「とりあえず異議を述べておく」のも経営上の判断と言えるわけです。では、組織再編行為自体には反対しないけれども、事後的なリスクに備えてとりあえず異議を述べておきたい、というような場合、このことをもって、会社は、「実際には異議を述べた債権者はいなかった」と抗弁することができるでしょうか？確かに、その債権者は当該組織再編自体に異議を差しはさむ意図はないかもしれません。しかし、それをどのように会社は証明できるのでしょうか？やはり、内容証明郵便で「異議申立書」が送付されてきた以上は、会社が積極的に「債権者を害するおそれがない」ことの立証をする必要があるのではないでしょうか？</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
　登記申請時には、異議を述べた債権者はいない、ことの申述を会社の代表者が行うわけですから、その申述の最終的な責任は会社の代表者が負うことになるわけですが、仮に内容証明郵便で「異議申立書」が送付されていれば、第三者に対してその事実をもって「異議を述べた債権者はいない」ことを抗弁することは極めて困難です。仮に債権者側がその真意を明らかにしたとしても、民事訴訟上の証拠力が認められる文書に「異議の申述」しかないのであれば、その抗弁は危うい基礎の上に成り立つことになりかねません。となれば、事後的な紛争を避ける意味においても、当事会社の側が積極的に「債権者を害するおそれがない」ことの立証をし、その申述をした書面を残しておくことが有益です。このような立場から、例え債権者の側のリスク回避的な判断として「異議申立書」が送付されてきたに過ぎず、会社と債権者との間にその合意がとれているとしても、「債権者を害するおそれがない」ことの申述をした書面を作成しておくのが無難である、と薦めることができそうです。</p>
</div>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://hosinoseiya.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E3%80%8C%E7%95%B0%E8%AD%B0%E3%82%92%E8%BF%B0%E3%81%B9%E3%81%9F%E5%82%B5%E6%A8%A9%E8%80%85%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3</link>
    <pubDate>Sat, 14 Apr 2018 12:06:01 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">hosinoseiya.blog.shinobi.jp://entry/49</guid>
  </item>
    <item>
    <title>愛すべきもの</title>
    <description>
    <![CDATA[結婚すると、自分の家族との付き合い方も変わる。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
今まで知らなかった一面を見る機会が増え、新鮮に感じると同時に、少し切なさもある。<br />
人間とは、人と人の関係性の中に本質があるのだな、と改めて感じさせられる。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
これまで家族の中では決して話題になることもなかった、半ばタブー視されていたような話題も出るようになり、いい意味で、新しい関係性が生まれている。いわば、結婚の効用か。しかしまだまだ変化してゆくのだろう。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
家族のことについて、私は殆ど何も知らないのだなあ、と気づく機会が増える。家族が増えたことで、自分の家族についての理解が深まっていく。こういうことはありきたりの経験なのだろうか。他人の家族についてはあまり関心がないので、それは知らない。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
母について、私が知っている母とは少し違う一面が、相方も交えた三者会談の中で明らかになったりする。逆に言えば、母も私についてはそれなりに知っていても、私と他人との関係性の上でしか明らかにならないこともあるのだろう、と思われる。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
誰かを理解する、というのは１対１では難しい。知りたいと思うその人が、自分に対してホンネで向き合っているとは限らないし、仲がいい同士でも、その人にしか向けない側面というものを誰しも持っている。友人関係でもそれは同じだろう。よく、三角関係が拗れやすいのは、３人が３人ともいつも同じ面を見せているとは限らないからである。AさんとBさんとCさんがいて、AさんはBさんにしか見せない部分があり、BさんはCさんにしか見せない部分がある。それに段々と気づいてくると、３人のバランス感覚が崩れてくるのである。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
家族関係についても同様で、その家に新しい人が入ってきて初めて明らかになる家族の側面、というものがあるらしい。そしてそれは、上手くいけば家族関係に新陳代謝を齎してくれるものでもあるのだろう。変化したバランスを取ることに失敗すると、嫁姑や兄弟同士の争いごとなどが生じてくるに違いない。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
歳を取るだけでは、家族間の人間関係というものはそれほど大きく変わらないのかもしれない。むしろ、外部から新たな構成員を迎え入れることで、そこに変化が生じてくるものらしい。以前は漠然としていたのに、「家」というものを意識させられるようになる。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
家、なんてものは、婚姻関係を通じてしか具体化しないのかもしれない。それまでは空気のようなものだが、結婚によって他者を迎え入れることを通じて、初めてそれが具体的なものとして意識されるようになる。そして、家族というものがどういうものなのかを知るのは、その時になってからなのかもしれない。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
結婚をしないと家族が生じない、とは思わないが（所詮は婚姻関係は「制度」なのだし）、誰かを家族として迎え入れる、というのは決定的な機縁であるように思える。少なくとも、私の母について言えば、私が結婚したことで改めて「母」として、母を意識するようになったと思う。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
母の自己犠牲的な性格はよくわかっているつもりだったけれども、その深いところの意味について、改めて思うところがある。世間的な意味での「親孝行」というものを私自身が信じてこれなかった理由も、今ならよくわかる。私は母に対して孝行をすることで、自分の生活の一部でも切り取ることを母がよく思わないことを胸の内でわかっていたからこそ、その自己犠牲的な響きを信じることができなかったのだ。母はそういう人なのだ。だから私はナルシストになるべくしてなっている。私が自由でなかったら、母も自由になれない。だから私には、自由でいる義務さえあるのかもしれない。<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
そういうことは、自分が親に何かを与えることを親孝行だとする向きには理解不可能な、というより親不孝者に限りなく近いのかもしれないが、私にとっては自然なことである。けれども、それがすべてだとも思えない。新しい家族が増えたことで、私なりのやり方以外の仕方で「孝行」しても、案外いいのかもしれないと思うようになったことも事実である。これは「感化」と呼べないこともない。<br />
<br />
<br />
<br />
感化されてゆく部分と、変わらない部分と、両方が混じり合ってより複雑な色合いになっていけばいいと思う。私の生活には矛盾がいる。矛盾と葛藤こそ愛すべきものである。]]>
    </description>
    <category>雑記</category>
    <link>https://hosinoseiya.blog.shinobi.jp/%E9%9B%91%E8%A8%98/%E6%84%9B%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%8D%E3%82%82%E3%81%AE</link>
    <pubDate>Sun, 01 Apr 2018 12:53:24 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">hosinoseiya.blog.shinobi.jp://entry/48</guid>
  </item>
    <item>
    <title>『夜のみだらな鳥』と、無意識の昏い淵。</title>
    <description>
    <![CDATA[<p style="margin: 0px 0px 6px; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;">一言で言えば、タナトスの世界。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;"><br />
<br />
<br />
見えない場所、泥のような昏い部分に対する愛着、そういう人間の澱が沈殿していき、異形の存在が造り出されていく。<br />
人形のように空虚な彼らの魂は、光の世界に住まう「主人」に従属していながら、いつしか、その主人さえも、脅かす存在になっていく。</p>
<div class="text_exposed_show" style="display: inline; font-family: Helvetica, Arial, 'hiragino kaku gothic pro', meiryo, 'ms pgothic', sans-serif; color: #1d2129;">
<p style="margin: 0px 0px 6px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
これを現代の階級社会の見立てとして見ることもできる。けれども、私はもっと普遍的な人間の意識の「疚しさ」を描いた作品ではないかと思っている。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
誰かに嫉妬する、その嫉妬がその存在を輝かしいものにする。その輝きは影を伴い、いつしかその影に飲み込まれる。欲望する者は欲望される者に、見る者は見られる者に支配されているようでいて、実は支配している。召使は主人の生活の不始末と不潔な部分を一手に引き受け、その主人の身体と出生の秘密を知る。マリオネットは操られているようでいて、糸を通じてその主人の人格を脅かす。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
そのような死の欲動（タナトス）の世界が、「栄光の世界」より本質的であると、作品冒頭に掲げられたヘンリー・ジェイムズのエピグラフは語っているようでもある。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
もう一つのモチーフは、閉じられた世界の美しさ、であろうか。<br />
18世紀に造られた修道院で暮らす老婆と異形の者たちの世界は、彼らの孤独の城であり、内的充足である。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
健全な世界に住まう人たちなら、この人為的な楽園を禁忌として退けるに違いない。<br />
ユルスナールの短編に、虚偽の世界で育ち、長ずるに及んで真実の世界を知って絶望した皇帝の話が出てくるが、そのような悲惨さは本書にはない。</p>
<p style="margin: 6px 0px; font-family: inherit;"><br />
<br />
<br />
何故なら、それは虚偽の世界ではないからである。<br />
これは紛れもない、真実の世界の話であり、ただ、その裏と表があるだけ。<br />
昏い作品だが、美しい物語である。</p>
</div>]]>
    </description>
    <category>未選択</category>
    <link>https://hosinoseiya.blog.shinobi.jp/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E3%80%8E%E5%A4%9C%E3%81%AE%E3%81%BF%E3%81%A0%E3%82%89%E3%81%AA%E9%B3%A5%E3%80%8F%E3%81%A8%E3%80%81%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E6%98%8F%E3%81%84%E6%B7%B5%E3%80%82</link>
    <pubDate>Sat, 17 Mar 2018 17:14:06 GMT</pubDate>
    <guid isPermaLink="false">hosinoseiya.blog.shinobi.jp://entry/47</guid>
  </item>

    </channel>
</rss>